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「パク・オクス牧師オンライン聖書セミナー」 #04 日本語テキスト

「パク・オクス牧師オンライン聖書セミナー」 #04 

日本語テキスト

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パク・オクス牧師オンライン聖書セミナー#04動画

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 #4 94개국이 함께하는 박옥수 목사 온라인 성경세미나 (2020년 5월 12일 오전)

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 2020年5月12日(火)午前のみことば

(日本語のテキストで記録しました。今回はその一部分です。続きは追って掲載したいと思います。)

 みなさんおはようございます。夢のような毎日がどんどん過ぎて行きます。初めは8億なんて数字は想像もしていませんでした。最初は1億くらいだと思って始めたのですが、その次の日2億まであがって、3億4億と本当に信じられませんでした。今は8億まであがったんですが。私が「本当にそうなのか」と聞きました。「先生が信じないでどうしますか」と。記録の表を見てそれが正確なのを知りました。

最初の日マルコの11章を話しましたが、そのあとにもいろんなコメントがありました。みことばを聞いて罪の赦しを受けて、病気が治りましたという証をたくさん見ました。とても感謝でした。

私たちは実際電線さえつなげれば、みなさんのお家に非常に良いお手伝いとして、電気を使うことができるでしょう。テレビもつけられますし、冷蔵庫も動かせられますし、エアコンもつけられますし、いろんな面で電気を使うことができます。

もし、みなさんが誰であってもイエスさまと心がつながってさえいれば、その時からみなさんの全ての問題はイエスさまが直接解決してくださいます。もどかしいことは、サタンが私たちの考えを心を騙して犯罪を犯すようにさせ、そして罪が神さまと私たちの間を隔てました。そして、その人が誰であってもイエスさまとの間でその罪の壁が崩されれば、イエスさまがみなさんの中で働き始めます。私はそのような経験をたくさんしてきました。今日はその部分について話そうと思いますが、へブルの10章の1節から読んでみたいと思います。

へブル10章の1節から18節のみことばを読んでみたいと思います。探せましたら、10章の1節から読みたいと思います。

1  律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですか ら、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。

2  もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。

3  ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。

4  雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

5  ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。

「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

6  あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。

7  そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」

8  すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、

9  また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。

10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。

12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、

13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

15 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。

16 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。

17 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」

18 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。"

 

ここまで読みたいと思います。蔚山(ウルサン)で夜10時あたりにに出発しました。蔚山からソウルまで4時間くらいの時間かかりますが、ソウルに到着したら早朝2時半あたりになると思いました。寝る時間と合わないので少し楽に寝なければと思い途中でどっか寄っていきましょうとなりました。それでクミ教会に行って寝ることになったんですよ。我が宣教会の教会はどこに行っても教会がありますので、行くと寝かせてくれるんです。

最初本来大邱(テグ)教会で寝る予定だったのですが、大邱のいろいろ話をしていて大邱インターチェンジを通ってしまったのです。それで次の教会がクミ教会でした。クミ教会の先生が電話に出ました。先生申し訳ありません、今日ちょっと今晩一晩泊まらせてもらえませんか。教会は高速道路から離れていれば難しいですが、すぐ隣にあったのでクミ教会に行って寝ました。それで「グー」と言って鼻いびきをかいて寝たんです。それで早朝4時あたりを過ぎてから、眠りから覚めて私がふたりでこっそり朝早朝に逃げようと思ったんです。みんな寝ていました。

それで服を着て玄関の扉を開けたんですよ。びっくりしました。玄関の扉を開けたら誰かそこに立っていたんです。クミ教会の牧師先生でした。私が逃げることを分かっていたようで、先にそこで見張りをしたんです。もちろん1時から立っていなかったようですが、かなり長い間前から待っていたようです。捕まりました。先生早朝の礼拝の御言葉お願い致します。だから宿泊代を出しなさいと言うんですね。早朝礼拝が終わりました。非常に良い時間が持てました。

しばらくみことばを伝えていたのですが、その時計の下にある女子学生が車椅子に乗っていました。本来そういう学生たちは車椅子に乗っていたので、なかなか早朝に参加できませんが、早朝礼拝終わってから女子学生のすぐ近くに寄りました。そして、その女子学生に私も冗談をかけました。みんな一緒に座ってるけど、どうしてあなたたは車椅子に乗ってるの。それ楽しいの。私は冗談を言ったのですが、彼女はかなり真剣に応えました。私は19歳のチェ・スヨンです、と彼女が自分の名前を答えました。

それで、彼女がこのように話を続けたのです。ある日学校から戻って来たとき足に感覚がありません。お母さんは「そういう時だってあるよ、大丈夫大丈夫」。でも足からだんだん感覚がなくなって、上へ上へとだんだんあがってきたのです。そして、ついにはお腹に至るまでついには感覚がなくなってしまったのです。本当にもどかしいことは、小便も大便もトイレが自由にできなくなってしまいました。

病院に行って検査を受けたところ、脊髄炎といって脊髄に炎症が生じてどんどん神経が死んでいっていますと。大便は3日に1度お母さんが薬を入れては、そしてお腹を一生懸命を押して取り出すんですよ。小便は1日に何度も機械から機械で抜かなければいけないそうです。その次に言いました。医者はそれでベッドに横になったきり少し経てば死にますよと。

私はできればただ通り過ぎたかったのですが、その綺麗な女子学生で、そして目もかなり輝いていて、ちょうどこの花ざかりのそのような若い女の子でした。花ざかりのその彼女が死にかかっているということは、非常にもどかしくて・・・。

私は19歳の時にイエスさまによって罪の赦しを受けました。幼い頃から教会に通いましたが、いつも罪人でした。いつも罪を犯したからです。申し訳ないですが、私は泥棒をたくさんしました。友達と一緒に他の家庭の畑に入って取って食べたり、夜には柿やりんごなどたくさん取って盗んで食べました。当時はかなり空腹だったので、そういうことをたくさんしていたんです。私は罪のためにかなり葛藤して、賛美歌の中で白い雪よりも雪よりもこの罪がきよめられましたと。以前はそれはただ歌として歌っていただけで、いつも自分は罪を犯すから罪で満たされていて、自分は罪人だと考えていました。

詳しく話すことは時間がなくてできなくて、すべて話はできませんが、19歳のころ非常に罪で葛藤しました。聖書をひとつひとつゆっくり読み始めたのです。毎朝早朝礼拝に出てはこの罪を赦してくれるようにこの罪の告白をしました。依然とこの罪はどんどんと大きくなったんです。ある日主の前でこの罪を赦してくれるようにお祈りをしましたが、この罪がきよめられたと思い始めたのです。そして、聖書をひとつひとつ読み始めました。聖書をひとつひとつ読み進めたときに、驚くべき事実を発見したのです。

聖書の中から発見したのは何だったのか。自分ははっきり物を盗んで嘘ついた罪人だったんです。罪人です。罪が多かったんです。教会に通う時間が長ければ長いほど罪が減るべきですが、どんどん増える一方でした。「ああ、自分は死んだら地獄に行くな」と確信していました。私は罪が多かったんです。でも、ひじょうに興味深いことは、聖書を読んでみたところ、聖書の中では私に義人んだという話があるんです。

「私が義人、義人」聖書を読み始めました。そして、発見したことは、イエスさまは38年間横たわっていた病人と会いました。彼は歩けない人でした。ただ横になったきりです。一度も歩いたことがない人です。しかし、この人に向かってイエスさまは「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言われました。

その病人の心の中では「私は罪人だ、障害者だ、自分は歩けない」という心でいっぱいだったのです。しかし、イエスさまはその病人を見ては「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言われました。病人はその心の中に葛藤が生じるわけです。あの方はいったい誰なんだ。あの方がいったいなんで私に「歩きなさい」と言ったのかな。今の自分は歩けないのに。自分の足は全て乾いてしまったのに。自分は以前も起き上がってみようと努力はしたのに、もうできなかったのに。今この私に「歩きなさい」と、そんなのありえない。

もしかすると、あの方がイエスというあの人かな。あの方はたくさんの病人を治したというけど。もし、あの方がイエスさまであれば「私に歩きなさい」と言うんだ。私は歩けないけど、あの方がそうおっしゃるなら歩いてみようかな。38年の病人が両手で地面を蹴って、手をついて起き上がってみたんです。驚くべきことになんと起き上がれたんです。そしたら歩けたんです。そうか、それなら私は歩けないけどイエスさまが「歩きなさい」と言われた時に、考えが二つに分かれます。自分の考えなら自分は歩けない。イエスさまは「歩きなさい」とおっしゃたんだ。そしたら、私の言葉が正しいかな、イエスさまの言葉が正しいかな。自分の考えを捨てて「歩きなさい」と言ったイエスさまの言葉を受け入れればいいんだ。

皆さんこの事実は疑いないですね。答えてもらいますか。みなさんまったく疑っていないでしょう。大事なことは罪の問題ですが、私は罪人です。でも、イエスさまが私に「私は義人だ」とおっしゃったのであれば、イエスさまの考えが正しいのでしょうか、私の考えが正しいのでしょうか。(救われる前の告白)『私は罪人です。今日他人の家のさつまいもを取って食べました。ああ、罪を犯してはいけないのに、嘘をたくさんつきました。』そして、間違いなく罪を犯したんです。38年のその病人の話が自分の話しだということを知りました。

私は歩きませんが、イエスさまが「歩きなさい」とおっしゃったんです。自分の話が正しいかな、イエスさまの話が正しいな。自分の考えに従うべきか、イエスさまの考えに従うべきか。雨が降らないとき神さまが「雨が降る」と、誰の言葉に従うでしょうか。神さまのみことばに従うべきです。それなら私は罪人ですが、私は嘘をついて泥棒もして喧嘩して悪いことをたくさんして私は罪人なんです。

私は律法を破って神の律法を犯してしまったのでありますが、イエスさまは私向って「義人だ」とおっしゃたんだ。イエスさまが私に「聖なる者だ」とおっしゃるなら、どちらが正しいんだ。自分の考えが正しいのか、イエスさまの考えがただしいのか。

私は聖書を読みました。申し訳ないことですが聖書を読んで非常に驚きました。聖書が非常に分厚いんです。ページが非常に多いですね。まったく絵がありません。文字でいっぱいです。まったくすき間もありません。これはすべて読もうと思うと、集中すれば1ページ読むのに2分かかりますが、韓国語の聖書は1800ページと少しありますが、1ページ読むのに2分なので、すべてを読むと3600分かかります。3600分は時間で言えば60時間です。1日に10時間聖書を読んだら6日1度聖書を読むことができます。6日間何もしないで聖書を終わりまで読んだことが何度もありました。

聖書を生活の中で正常に読むことができないので、聖書を読むために生活を変え始めたのです。私は結婚する時まで2分以上ご飯食べたことがありません。今もかなり早いほうですが、トイレに行ってただ座っていません。必ず聖書を覚えました。道端を歩いてもただ覚えて、シャワーを5分以上かけてしたことがありません。寝る時間も減らして、どうにか睡眠に対する本を読んでは睡眠をどうにか減らすように努力しました。それで聖書を10回読んだとき20回読んで30回読んで40回読んで50回読んで60回読んで70回読んで、それからもう正確に数えてなくて分かりませんが、100回までは読んでないと思います。80回くらい読んだんじゃないかなと思いますが。私の心を聖書の中に流れる方向に置きましたその時からたくさんの大きな働きが生じ始めたんです。

チェ・スヨンという女子学生が19歳で花盛りの美しい女の子、女性でありましたが、でも彼女はどんどん死にかかっていました医者はベッドの上でどんどん死んでいくでしょうと話し、最近このように科学が発達しているのに脊髄炎の炎症ひとつ治せないのかい。できないそうです。私が椅子を引いてその女の子と向き合って座りました。

スヨン私の話をよく聞きなさい。電気はね電線を通って流れるんだよ。電線さえつなげておけば電気が入ってきて、やらせることは全部してくれるだ。電気は電線でなければ入れないんだ。水道水はパイプを通って通るわけでバケツを通っていくわけではないんだ。そしてイエスさまがあなたの中にどうやって入れるのか、どうか主よ私のところに来てください、来てくださいと多くの人がお願いしますが、でもだからと言って主が来られるわけではありません。 

 主がみなさんの心の中に入りたくても、入れません。いったいどうすれば入れるのか。みなさん主が私たちの心の中に入るために、主の心と私と心が一つになった時、その時主は私たちの心の中に入って来られます。

スヨンよく聞いてごらん。今あなたは脊髄炎によって死にかかってるんだけど、もしあなたの心とイエスさまの心が一つになれば。考えてみなさい。あなたとわたしと同じ心なら心は互いに流れるでしょう。あなたの心が私の中にも入るでしょう。私の心があなたの中にも入るでしょう。

エスさまと私が同じ心になれば、イエスさまと私がイエスさまの心を受け入れられるんだ。イエスさまがこの心の中にいらっしゃったら、どんなことが起こるかわかるかい。脊髄炎その問題はあなたの問題ではなく、イエスさまの問題になるんだ。もうそれは何でもないんだ。

みなさん私はかなり昔から聖徒たちにこのイエスさまに関する話をします。みなさん人の心はもちろんひとつではないので、そんなに難しくありません。イエスさまの心と同じ心になれば、その時からイエスさまの心とみなさまの心がろひとつですから、「主イエスよわが心の中にいらっしゃってください」と言っては心を閉ざしてしまうと、みなさまの心をどこを探してもイエスさまは見えません。

 

しかし、イエスさまがその病人に向かって「起きて床をとって歩きなさい」とおっしゃったときに、その人はあの言葉を受けなきゃ、歩かなきゃと思ったとき、その心の中を見てみたら歩きたいと願うイエスさまの心があるわけです。ただ漠然と「主よどうかこの心の中にお入りください、お入りください、信じます」とそうできるわけではないです

 

・・・続く