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パク・オクス牧師 オンライン聖書セミナー 2020年5月12日午前

パク・オクス牧師 オンライン聖書セミナー 動画の文字化

主催 グッドニュース宣教会

日時 2020年5月12日午前

 

「パク・オクス牧師オンライン聖書セミナー」 #04 日本語通訳

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「パク・オクス牧師オンライン聖書セミナー」 #04 韓国語と英語通訳

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みなさんおはようございます。夢のような毎日がどんどん過ぎて行きます。初めは8億なんて数字は想像もしていませんでした。最初は1億くらいだと思って始めたのですが、その次の日2億まであがって、3億4億と本当に信じられませんでした。今は8億まであがったんですが。私が「本当にそうなのか」と聞きました。「先生が信じないでどうしますか」と。記録の表を見てそれが正確なのを知りました。

最初の日マルコの11章を話しましたが、そのあとにもいろんなコメントがありました。御言葉を聞いて罪の赦しを受けて、病気が治りましたという証をたくさん見ました。とても感謝でした。

私たちは実際電線さえつなげれば、みなさんのお家に非常に良いお手伝いとして、電気を使うことができるでしょう。テレビもつけられますし、冷蔵庫も動かせられますし、エアコンもつけられますし、いろんな面で電気を使うことができます。

もし、みなさんが誰であってもイエスさまと心がつながってさえいれば、その時からみなさんの全ての問題はイエスさまが直接解決してくださいます。もどかしいことは、サタンが私たちの考えを心を騙して犯罪を犯すようにさせ、そして罪が神さまと私たちの間を隔てました。そして、その人が誰であってもイエスさまとの間でその罪の壁が崩されれば、イエスさまがみなさんの中で働き始めます。私はそのような経験をたくさんしてきました。今日はその部分について話そうと思いますが、へブルの10章の1節から読んでみたいと思います。

へブル10章の1節から18節の御言葉を読んでみたいと思います。探せましたら、10章の1節から読みたいと思います。

1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。

2 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。

3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。

4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。

「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、

わたしのために、からだを造ってくださいました。

6  あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。

7  そこでわたしは言いました。

『さあ、わたしは来ました。

聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、

神よ、あなたのみこころを行うために。』」

8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、

9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。

10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。

12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、

13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

15 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。

16  「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」

またこう言われます。

17 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」

18 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。

 

ここまで読みたいと思います。

蔚山(ウルサン)で夜10時あたりに出発しました。蔚山からソウルまで4時間くらいの時間かかりますが、ソウルに到着したら早朝2時半あたりになると思いました。寝る時間と合わないので少し楽に寝なければと思い途中でどっか寄っていきましょうとなりました。それでクミ教会に行って寝ることになったんですよ。我が宣教会の教会はどこに行っても教会がありますので、行くと寝かせてくれるんです。

最初、本来は大邱(テグ)教会で寝る予定だったのですが、大邱のいろいろ話をしていて大邱インターチェンジを通ってしまったのです。それで次の教会がクミ教会でした。クミ教会の先生が電話に出ました。先生申し訳ありません、今日ちょっと今晩一晩泊まらせてもらえませんか。教会は高速道路から離れていれば難しいですが、すぐ隣にあったのでクミ教会に行って寝ました。それで「グー」と言って鼻いびきをかいて寝たんです。それで早朝4時あたりを過ぎてから、眠りから覚めて私がふたりでこっそり朝早朝に逃げようと思ったんです。みんな寝ていました。

それで服を着て玄関の扉を開けたんですよ。びっくりしました。玄関の扉を開けたら誰かそこに立っていたんです。クミ教会の牧師先生でした。私が逃げることを分かっていたようで、先にそこで見張りをしていたんです。もちろん1時から立っていなかったようですが、かなり長い間前から待っていたようです。捕まりました。先生早朝の礼拝の御言葉お願い致します。だから宿泊代を出しなさいと言うんですね。早朝礼拝が終わりました。非常に良い時間が持てました。

しばらく御言葉を伝えていたのですが、その時計の下にある女子学生が車椅子に乗っていました。本来そういう学生たちは車椅子に乗っていたので、なかなか早朝に参加できませんが、早朝礼拝終わってから女子学生のすぐ近くに寄りました。そして、その女子学生に私も冗談をかけました。みんな一緒に座ってるけど、どうしてあなたは車椅子に乗ってるの。それ楽しいの。私は冗談を言ったのですが、彼女はかなり真剣に応えました。私は19歳のチェ・スヨンです、と彼女が自分の名前を答えました。

それで、彼女がこのように話を続けたのです。ある日学校から戻って来たとき足に感覚がありません。お母さんは「そういう時だってあるよ、大丈夫、大丈夫」。でも足からだんだん感覚がなくなって、上へ上へとどんどんあがってきたのです。そして、ついにはお腹に至るまでついには感覚がなくなってしまったのです。本当にもどかしいことは、小便も大便もトイレが自由にできなくなってしまいました。

病院に行って検査を受けたところ、脊髄炎といって、脊髄に炎症が生じてどんどん神経が死んでいっていますと。大便は3日に1度お母さんが薬を入れては、そしてお腹を一生懸命を押して取り出すんですよ。小便は1日に何度も機械から機械で抜かなければいけないそうです。その次に言いました。医者はそれでベッドに横になったきり少し経てば死にますよと。

私はできればただ通り過ぎたかったのですが、その綺麗な女子学生で、そして目もかなり輝いていて、ちょうどこの花ざかりのそのような若い女の子でした。花ざかりのその彼女が死にかかっているということは、非常にもどかしくて・・・。

私は19歳の時にイエスさまによって罪の赦しを受けました。幼い頃から教会に通いましたが、いつも罪人でした。いつも罪を犯したからです。申し訳ないですが、私は泥棒をたくさんしました。友達と一緒に他の家庭の畑に入って取って食べたり、夜には柿やりんごなどたくさん取って盗んで食べました。当時はかなり空腹だったので、そういうことをたくさんしていたんです。私は罪のためにかなり葛藤して、賛美歌の中で『白い雪よりも雪よりもこの罪がきよめられました』と。以前はそれはただ歌として歌っていただけで、いつも自分は罪を犯すから罪で満たされていて、自分は罪人だと考えていました。

詳しく話すことは時間がなくてできなくて、すべて話はできませんが、19歳のころ非常に罪で葛藤しました。聖書をひとつひとつゆっくり読み始めたのです。毎朝早朝礼拝に出てはこの罪を赦してくれるようにこの罪の告白をしました。依然とこの罪はどんどんと大きくなったんです。ある日主の前でこの罪を赦してくれるようにお祈りをしましたが、この罪がきよめられたと思い始めたのです。そして、聖書をひとつひとつ読み始めました。聖書をひとつひとつ読み進めたときに、驚くべき事実を発見したのです。

聖書の中から発見したのは何だったのか。自分ははっきり物を盗んで嘘をついた罪人だったんです。罪人です。罪が多かったんです。教会に通う時間が長ければ長いほど罪が減るべきですが、どんどん増える一方でした。「ああ、自分は死んだら地獄に行くな」と確信していました。私は罪が多かったんです。でも、非常に興味深いことは、聖書を読んでみたところ、聖書の中では私に義人んだという話があるんです。

「私が義人、義人」聖書を読み始めました。そして、発見したことは、イエスさまは38年間横たわっていた病人と会いました。彼は歩けない人でした。ただ横になったきりです。一度も歩いたことがない人です。しかし、この人に向かってイエスさまは「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言われました。

その病人の心の中では「私は罪人だ、障害者だ、自分は歩けない」という心でいっぱいだったのです。しかし、イエスさまはその病人を見ては「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言われました。病人はその心の中に葛藤が生じるわけです。あの方はいったい誰なんだ。あの方がいったいなんで私に「歩きなさい」と言ったのかな。今の自分は歩けないのに。自分の足は全て乾いてしまったのに。自分は以前も起き上がってみようと努力はしたのに、もうできなかったのに。今この私に「歩きなさい」と、そんなのありえない。

もしかすると、あの方がイエスというあの人かな。あの方はたくさんの病人を治したというけど。もし、あの方がイエスさまであれば「私に歩きなさい」と言うんだ。私は歩けないけど、あの方がそうおっしゃるなら歩いてみようかな。38年の病人が両手で地面を蹴って、手をついて起き上がってみたんです。驚くべきことになんと起き上がれたんです。そしたら歩けたんです。そうか、それなら私は歩けないけどイエスさまが「歩きなさい」と言われた時に、考えが二つに分かれます。自分の考えなら自分は歩けない。イエスさまは「歩きなさい」とおっしゃたんだ。そしたら、私の言葉が正しいかな、イエスさまの言葉が正しいかな。自分の考えを捨てて「歩きなさい」と言ったイエスさまの言葉を受け入れればいいんだ。

みなさんこの事実は疑いないですね。答えてもらえますか。みなさんまったく疑っていないでしょう。大事なことは罪の問題ですが、私は罪人です。でも、イエスさまが私に「私は義人だ」とおっしゃったのであれば、イエスさまの考えが正しいのでしょうか、私の考えが正しいのでしょうか。(救われる前の告白)『私は罪人です。今日も他人の家のさつまいもを取って食べました。ああ、罪を犯してはいけないのに、嘘をたくさんつきました。』そして、間違いなく罪を犯したんです。38年のその病人の話が自分の話しだということを知りました。

私は歩きませんが、イエスさまが「歩きなさい」とおっしゃったんです。自分の話が正しいかな、イエスさまの話が正しいな。自分の考えに従うべきか、イエスさまの考えに従うべきか。雨が降らないとき神さまが「雨が降る」と、誰の言葉に従うでしょうか。神さまのみことばに従うべきです。それなら私は罪人ですが、私は嘘をついて泥棒もして喧嘩して悪いことをたくさんして私は罪人なんです。

私は律法を破って神の律法を犯してしまったのでありますが、イエスさまは私向って「義人だ」とおっしゃたんだ。イエスさまが私に「聖なる者だ」とおっしゃるなら、どちらが正しいんだ。自分の考えが正しいのか、イエスさまの考えが正しいのか。

私は聖書を読みました。申し訳ないことですが、聖書を読んで非常に驚きました。聖書が非常に分厚いんです。ページが非常に多いですね。まったく絵がありません。文字でいっぱいです。まったくすき間もありません。これはすべて読もうと思うと、集中すれば1ページ読むのに2分かかりますが、韓国語の聖書は1800ページと少しありますが、1ページ読むのに2分なので、すべてを読むと3600分かかります。3600分は時間で言えば60時間です。1日に10時間聖書を読んだら6日1度聖書を読むことができます。6日間何もしないで聖書を終わりまで読んだことが何度もありました。

聖書を生活の中で正常に読むことができないので、聖書を読むために生活を変え始めたのです。私は結婚する時まで2分以上ご飯を食べたことがありません。今もかなり早いほうですが、トイレに行ってただ座っていません。必ず聖書を覚えました。道端を歩いてもただ覚えて、シャワーを5分以上かけてしたことがありません。寝る時間も減らして、どうにか睡眠に対する本を読んでは睡眠をどうにか減らすように努力しました。それで聖書を10回読んだとき20回読んで30回読んで40回読んで50回読んで60回読んで70回読んで、それからもう正確に数えてなくて分かりませんが、100回までは読んでないと思います。80回くらい読んだんじゃないかなと思いますが。私の心を聖書の中に流れる方向に置きましたその時からたくさんの大きな働きが生じ始めたんです。

チェ・スヨンという女子学生が19歳で花盛りの美しい女の子、女性でありましたが、でも彼女はどんどん死にかかっていました。医者はベッドの上でどんどん死んでいくでしょうと話し、最近このように科学が発達しているのに脊髄炎の炎症ひとつ治せないのかい。できないそうです。私が椅子を引いてその女の子と向き合って座りました。

スヨン私の話をよく聞きなさい。電気はね、電線を通って流れるんだよ。電線さえつなげておけば電気が入ってきて、やらせることは全部してくれるだ。電気は電線でなければ入れないんだ。水道水はパイプを通って通るわけでバケツを通っていくわけではないんだ。そしてイエスさまがあなたの中にどうやって入れるのか、どうか主よ私のところに来てください、来てくださいと多くの人がお願いしますが、でもだからと言って主が来られるわけではありません。 

 主がみなさんの心の中に入りたくても、入れません。いったいどうすれば入れるのか。みなさん主が私たちの心の中に入るために、主の心と私と心が一つになった時、その時主は私たちの心の中に入って来られます。

スヨンよく聞いてごらん。今あなたは脊髄炎によって死にかかっているんだけど、もしあなたの心とイエスさまの心が一つになれば。考えてみなさい。あなたとわたしと同じ心なら心は互いに流れるでしょう。あなたの心が私の中にも入るでしょう。私の心があなたの中にも入るでしょう。

エスさまと私が同じ心になれば、イエスさまと私がイエスさまの心を受け入れられるんだ。イエスさまがこの心の中にいらっしゃったら、どんなことが起こるかわかるかい。脊髄炎その問題はあなたの問題ではなく、イエスさまの問題になるんだ。もうそれは何でもないんだ。

みなさん私はかなり昔から聖徒たちにこのイエスさまに関する話をします。みなさん人の心はもちろんみなひとつではないので、そんなに難しくありません。イエスさまの心と同じ心になれば、その時からイエスさまの心とみなさまの心がひとつですから、「主イエスよわが心の中にいらっしゃってください」と言っては心を閉ざしてしまうと、みなさまの心をどこを探してもイエスさまの心は見えません。

しかし、イエスさまがその病人に向かって「起きて床をとって歩きなさい」とおっしゃったときに、その人はあの言葉を受けなきゃ、歩かなきゃと思ったとき、その心の中を見てみたら歩きたいと願うイエスさまの心があるわけです。ただ漠然と「主よどうかこの心の中にお入りください、お入りください、信じます」とそうできるわけではないです。

夫婦が喧嘩した時にもう喧嘩やめようと、そうなされるものではないのです。会話をして心は互いに流れなければいけません。妻に何か過ちがあった時に、妻を理解したり、そして妻が何か誤ったことをした時理解してあげますし、互いに心が一つになった時に、その時心が流れるわけであって。それはただ私が知っているある一人の韓国人の奥さんは失敗しました、結婚に。日本の方と結婚したそうですが、結婚して6ヶ月間の間彼女はとっても幸せでした。あの彼女旦那さんは日本の方で家事を何でもしてくれました。

韓国人の人と日本人の方とこんなに違うんだね。本当にうちの旦那さんいいな、いいな最高だ。6ヶ月間まるで森の中のお姫様のような気分でした。しかし6ヶ月後彼女が感じたことが何かと言うと、夫がその教養によって習慣によってその体にしみついていて、心からするわけではないのです。完璧に全ての事をしますが、夫の心が全くわからないのです。何でも犠牲をはらってやってくれますが、それが心からではないのです。

6ヶ月経ってから夫の心が見たかったのです。

「あなた、心の内の話ししてくれませんか。心の話って一体何なんだ。だから話せばいいんじゃないか。あんたそりゃ心の話じゃないでしょう。心でするわけじゃないでしょう。」

彼女は何だか何だかおかしくなりそうでした。以前と変わらずよくしてくれます、でも心ではないわけです。

「あなたは私たちは心が大事だよ。ちょっと心のうちの話をしてみてよ、お願いだから。お願いだから心を話してみてよ。」

彼女は気がおかしくなりそうでした。

夫は「心の話っていったい何を話せばいいんだよ。」

6ヶ月間がとっても幸せだったんです。あんなにうれしかったんです。それは外見的な行動だけであって、夫の心まで見えたわけではなかんです。行動的には非常に正しいです。でも心の話は一言も言いません。心の中に一体何が入っているのか、怪物が入ってるのか悪魔が入ってるのか天使が入っているのか何もわかりません。だから心の話をしてくれ、でもそれができないわけです。できないんですね。その後の話はもう話しませんが。

皆さん神さまと私たちの心が合わさったら、ある日自分がその妻と喧嘩をしたとします。牧師は全部自由ですが、でも夫婦喧嘩に自由がありません。牧師だからと言って毎日喧嘩してはいけませんし。我が夫婦は12時30分から喧嘩を始めます。あんた静かにして、あんたも静かにして。どんどん声がおおきくなっていきます。腹が立ってくるんですね。ほんとに心が傷ついて、ある日妻が泣きながら話をするんです。ああ、そうだったのか、自分はそれを知らなかったな。

互いに心が流れる時があります。でもよく聞こえないんですね。いろんなこの歴史があって、そして水が溜まっている時もあります。彼女も心の中に蚊もできたりしますが、皆さん妻と心が流れる時平和があります。でも妻が心が流れるためには夫の話をよく聞かなければいけません。

私は正直なところ男性中心的な人です。わが教会で私たちに先生はいつも男の味方ですね、という人がいますが。ある国は女性中心で、もどかしいなとも感じたりしますが。

私が少し脇道に逸れてしまいましたが少し戻りたいと思います。皆さん心が流れなければいけません。私は今イエス様とぶつかりました。38年間横になった病人は歩けないのです。でもイエスさまの言葉を聞くと彼は起きて床を取って歩かなければいけません。自分は歩けないんです。自分これまでやったんです。でもできません。でもイエスさまのほうが正しいのでしょうか、自分のほうがただしいのでしょうか。その時イエスさまの心と合わせようとしたときに、自分がほんとうにありえないことですが、イエスさまの話が正しいのであって自分の話は間違っている。

 その人は起きて歩き始めれば、その人が今歩くのは、それは自分の心で歩いているわけではありません。イエスさまの心が口から出て、そして耳の中に入ってきて、自分を歩かせたので、歩いたのは自分の心ではなくイエスさまの心であります。その時イエスさまの心が自分の心の中に入りました。イエスさまの心が自分の心の中に入って、自分が歩けなかったすべての病を全て取り除き、そして歩けるようにしてしまったわけです。

アーメン、アーメン。ただ具体的に

「主よどうぞこの罪を赦してください、私は罪人でどうかこの罪を赦してください。」

そうではないんです。正確にイエスさまの心が自分の中に入った後、今自分があるためには何をすべきかわかりますか。38年になる病人はイエスさまが歩こうと言ったときに、イエスさまの御言葉が自分の心の中に入って、自分が歩けないというその心を全て砕いてしまわなければいけません。そして歩きなさいとおっしゃったイエスさまの心が自分の中でいっぱいに満たされなければいけません。

そうなった時に自分の心とイエスさまの心が一つになるわけです。すると自分が歩けるんだなーって心に変わるんです。よく聞いてみてください。その人が歩いた時に、イエスさまの心が入って彼が歩けると思い歩いたときに、自分は歩けるようになるわけです。私は聖書を読んでそして歩けなかったわけでありません。病気があった時に何度も何度もこのような方法で勝ち抜いててきました。

この女の子にもそれを伝えてあげました。少し時間がかかるようですが、この時間もなく早くソウルに戻りましたが、その学生をただ置いてゆくわけにはいかなかったのです。スヨン私の話をよく聞きなさい。あなたの考えとイエスさまの考えは違うんだ。

主は「私の思いはあなたがたの思いと異なり、私の道はあなたがたの道とは異なっていて、天と地が離れているように、あなたの思いと私の思いは異なる」と言いました。神さまの心と私の思いが異なるのは事実であります。神さまとみなさんの生活がなぜ違うかと言いますと、心が違うから生活が違うんです。もし皆さまの心と神さまの心が一つになれば、みなさんの生活が神さまの生活と同じになるわけです 

ペテロが宮に上がる途中、彼はあしなえと出会いました。ペテロは数日前にイエス様が十字架に付けられるその前の日、彼はイエスさまを否認しました。イエスさまが十字架につけられました。でも三日後にイエスさまが復活されたわけです。弟子たちのいるその部屋にイエスさまがお入りになったんです。前であればみんなを前にして、ペテロはでしゃばったはずですが、でもイエス様の前に立つ自信は彼にはなかったんです。

なぜなら、イエスさまを何度も知らないと彼は否認したわけです。それが恥ずかしくて、それが罪になって出ていけないわけです。その時は本来のペテロであれば真っ先に出て行ってどけどけと言ってイエスさまと会話したはずですが、しかし、ペテロはイエスさまの前に出ていくことはできませんでした。イエスさまが去ったあと、ペテロの心の中にはたくさんの罪の呵責がありました。

「私のどこがイエスの弟子だ。イエスさまを3度も否認したものなのに。私はこれまで3年間いろんなことをしてきたけど、結局私はイエスさまを3度否認した、そんな人間なんだな。私は本当に人間でいる資格もないんだ。私の何が弟子だ。自分のどこが弟子だ、自分は違うんだ。自分はただの漁師だ。

ペテロはそう考えました。芋虫は松の葉を食べて生きるといますが、私は漁師なんだ。魚でも捕まえに行こう。それでイエスさまが復活されるのを見て、そしてイエスさまの復活を証言しなければいけませんが、彼はとうていイエスさまの働きはできませんでした。イエスさまを3度も否認したものが何の弟子だ。そんなのありえない。ああ、自分は自分のことをぜんぜん知らなかったんだな。これだったら初めからイエスさまについていかなかったら、イエスさまを3度も否認することもなかったはずなのに。考えるだけでも心が非常に傷んだんです。自分はイエスさまの弟子なんかじゃない。もう一度ガリラヤに魚を捕まえに行きました。でもペテロは魚を一匹も捕まえられなかったんです。

早朝イエスさまがいらっしゃいました。

「魚を捕まえたかい」

「いえ、一匹もありません」

「右側に網をおろしなさい」

そして、たくさん捕まえたんです。

ペテロが陸地に上がったらイエスさまがもうたき火を作っていて、そしてパンを準備して水を準備していました。イエスさまとともに朝食をとったんです。朝食をとったあと、イエスさまが言われました。

ヨハネの子シモンよ、あなたはここにいる者より私を愛するか」と。

ペテロは彼の心の中を見たらイエスさまを愛する心があったんです。彼はイエスさまを愛していました。はっきり彼はイエスさまを愛していました。

『でもなんで私はイエスさまを否認してしまったのだろう』

『死ぬかと思って嘘をついたんだな』

『だからと言って心からイエスさまを否認したわけではないけど』

エスさまを否認したとき罪だけでいっぱい心が満たされていましたが、イエスさまがペテロと会って真っ先に、ペテロの心の中にあったイエスさまを愛する心があると、その愛する心を呼び起こしてくださったのです。

「あなたはここにいる者より私を愛しますか」と。

彼はイエスさまを愛していました。

「はい主よ、私があなたを愛することはあなたがご存じです」

先ほどまで彼はイエスさまを否認した自分はよくできると思っていたわけです。

 みなさん、とっても不思議なことがあって、私たち全員の心の中に私たちのために亡くなったイエスさまを愛する心があります。そして、その中に肉の欲望もあれば、そして嘘もついたり、また罪も犯したり、イエスさまを愛する心がないわけではないんです。しかし、私たちはイエスさまを否認した心に集中していますから、

『私は3度否認した。私はイエスさまを愛する心なんてない』と考えたんです。

 イエスさまはペテロと出会ったあと、イエスさま売った、否認した、という話をしたわけではありません。

「ペテロよ、私を愛するか」

その話を聞くあいだ、ペテロは

『ああ、自分はイエスさまを愛しているんだね』

そうか、私の小羊を飼いなさい。

「私がですか。あなたの小羊を私がですか」

「あなたはここにいる人以上に私を愛しますか」

ほんとうに彼は愛してるんです。

「はい主よ、私は主を愛しています」

「そうか、私の小羊を飼いなさい」

みなさん、大事なことは、これまでペテロは一人でいたときに悪いことばかり考えていました。自分はだめだ、自分は漁師だ、自分はイエスさまの働きなんてできない、そう考えていたんです。しかし、イエスさまが嘘をつているわけではありません。ペテロの心の中にあるイエスさまを愛する心を吹き起こしたとき、ペテロの心の中にイエスさまを愛する心がどんどんおおきくなっていくんです。

「ああ、では私は神さまの小羊を養えるんですね」

「でもイエスさまを3度否認したことはどうすればいいんだ」

「それはあなたの心ではない。あなたが嘘をついたんだ」

「それは嘘なんだけど、その罪も十字架で赦されたじゃないか」

「ああ、そうだね」

「私がイエスさまを捨てて、どうして他のことをしようとしていたのかな」

同じ位置にいて、こっち側で感じるときは不可能で、イエスさまの弟子になることは不可能でした。イエスさまはペテロの心の中にイエスさまを愛する心を入れて、イエスさまを愛する心を消せなかったのです。

 みなさまの中にペテロのように同じで罪を犯した面もあります。あってますか。あってますか。罪を犯していない人は手をあげてください。あなた罪を犯していないの。罪を犯していないの。みなさん罪を犯していない人は誰もいません。みなさんは弟子になる資格もありません。そして、みなさんは神の働きをする資格もないんです。しかし、イエスさまがペテロのところまでやってきて、

「シモンよ、私が十字架につけられたじゃないか。この罪を十字架で贖ったんだ。あなたはもう聖なるものなんだ。あなたは義人だ。あなたには罪がない。その罪の罰をすべて私が受けたんだ」

 ペテロがイエスさまを愛する者になりました。ペテロはイエスさまを捨ててガリラヤの海で魚を取ろうとしていましたが、でもイエスさまがいらっしゃいました。そして魚を捕まえてくださったんです。今罪を犯して十字架なんてまったく見えないから、自分は罪人だと話すしかなかったんです。自分は罪が多いです。自分は罪人です。自分は嘘をつきました。自分は泥棒しました。自分は罪がたくさんあります。自分は罪人です。

 でもイエスさまがいらっしゃって、ペテロに言われました。

「私が十字架でつけられたじゃないか。この釘跡を見なさい。脇腹のやりの跡を見なさい。これはあなたの罪の罰を受けた証拠なんだ。私が十字架で亡くなったのに、あなたの罪が残っているなら、いったい私が死んだ理由は何だったんだ。私が槍で脇腹を刺されて、それでもあなたの罪が残っているなら、私が十字架で亡くなったのは気がおかしくなったとでも言うのか。私が打ち付けられたことによって、私がいばらの冠をかぶったことによって、ムチに打たれたことによって、そしては槍で脇を刺されたことによって、あなたの罪を赦そうとしたんだ。だからあなたの罪は洗い流されたんだ。

 もしイエスさまの血で罪が赦されないなら、イエスさまの十字架は失敗だと言えるでしょう。

非常にもどかしい点は、今日多くのキリスト教指導者が聖徒たちを罪人にしています。

「罪を犯したじゃないか。噓をついたじゃないか。なのにどうして罪人じゃないんだ」

みんな罪人になりました。彼らは罪を犯したことだけを信じて、十字架は信じないんです。だから教会は暗くなります。

 はっきりとペテロはイエスさまを否認しました。彼がどんな罪を犯していても、十字架は私たちのすべての罪を赦しました。私たちはこれ以上罪人ではなく義人で聖なるものであります。聖霊さまがそのように話しています。イエスさまは私たちの罪によって罪に引き渡され、私たちを義と認めさせるためによみがえられました。アーメン、アーメン。

私たちが罪人だと話す理由は、自分が罪を犯したから罪人だと言うんです。この話は38年間横たわっている病人と非常に当てはまる話でありますが、38年間彼は病人でした。彼は一度も歩いたことはありません。彼は歩けなかったんです。彼は歩けませんでした。イエスさまはあなたを歩かせてあげるから歩きなさいと言われます。いいえ、私は歩けません。それは自分の考えです。

「起きて床を取り上げて歩きなさい」これはイエスさまの御言葉であります。どちらを選択しますか。自分の言葉が正しいのでしょうか、イエスさまの言葉が正しいのでしょうか。自分は罪を犯して罪人であるのは間違いないのですが。でもイエスさまが義人だと言えば義人なんです。アーメン、アーメン。それがイエスさまを信じることです。

 私が、罪人だという人に聞きますが、イエスさまがあなたの罪を贖っていないんですか。イエスさまがあなたの罪のために十字架につけられます、とそう話しといては、なぜあなたは賛美歌を歌いますか。

「その血によって贖われた」

みなさん、賛美歌はなぜ歌うんでしょうか。

「嬉しい日、嬉しい日、主イエス、私の罪の全て贖った日」

本当に通訳よくできました。もう一度しましょうか。

みなさん「嬉しい日、嬉しい日、主イエス我が罪の全て贖った日」

じゃっかん少し変でしたが、とてもよくできました。

アントニオ牧師の息子ですが、牧師が息子を良く育ててくれました。

ではみなさん、聖書は言います。イエスさまの血によって私たちの罪が流されたと言います。

でも私たちは罪人だと言います。みなさん聖書が正しいのでしょうか、自分が正しいんでしょうか。私は聖書を読んだんです。私は罪を犯し泥棒をして、たくさんの罪を犯して悪な罪人でありますが、イエスさまが私を義人だと言います。なぜでしょう。それはイエスさまが自分が泥棒をしたことを知らないからですか。イエスさまが私が嘘をついたことを知らないから義人だと言われますか。そうではありません。イエスさまはご存じです。

あなたは嘘をついた、だけどその罪は許されたんだと。

第一コリント6章11節には、本当に素晴らしい御言葉があります。一緒に見てみましょう。

10節から見てみます。

「盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません」

11節には

「あなた方の中のある人たちは以前はそのようなものでした」

それは以前、罪を犯したってことですね。しかし主イエスキリストはこのように言いました。

「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」と。

英語は興味深いですが、

あなたは罪を犯した。しかし。あなたは洗われ、あなたは聖なるものだ。あなた罪を犯した。しかし、あなたは義と認められた。ここの「バット」というこの文字はこれまで話した内容を覆す時に使う単語ですね。

お天気が寒い、しかし自分は寒くない。それは自分がいい服を着てるから、わかりますか。そういうことですね。私たちは罪を犯しました。しかし私たちは義人です。聖なるものです。

ヘブルの10章を読みましたが、なぜへブルの10章はどうやって私が義人になったのか、聖なるものになったのか、それを話してくれています。

10章1節には、

「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから」

ここで何と話しているでしょう。

「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても」ということは、律法の言うすべてのこと、それはこれからイエス・キリストがいらっしゃって、こうなさることを説明するために律法がつくられたということです。

律法の中に安息日ということがありますね。あっていますか。

十戒の中で、安息日は何番目のでしょうか。4番目ですね。

安息日を覚えその日を守りなさいと。

そして6日間力をかけて全ての事をした後、そして7日目は主の日であって、何もしてはならない、働いてはならない。あなたの女奴隷、男奴隷そして客であってもそれは働いてはならないと。これが安息日に対する法であります。

よく聞いてみてください。安息日は日曜日が安息日ではありません。安息日は金曜日です。すいません金曜日ではありません。土曜日です。金曜日の夜イスラエルのカレンダーでは日が暮れると新しい日になるのです。金曜日の夜日が暮れたら、土曜日になって安息日が始まるわけです。安息日がいつまで続くでしょうか。土曜日の夜日の暮れまで安息日です。そこに興味深い話がたくさんありますが、例えばしもべがいますが、重たい荷物を持っていますが、

「重たい重たいあーもうこんなこの一体いつとれるのかな」と金曜日の夜になりました。そして今、日が西の山にかかりました。

今の日が少しずつでも早く早く早く早く沈め沈め沈めと言って、そして

「ああ、もう私はもう自由だ」

分かりますか。金曜日の夜、日が暮れれば安息日になりますから、どんなしもべであってもどんな人であっても荷物を全部下ろし、

「ああ安息日だ、ああ安息日だ」

もし金曜日の日が暮れていないのに、下ろしたら鞭打たれますよ。 

「おいお前、どうして荷物をおろすんだ、早く働け」

だからその安息日は何も働いてはならないってことです。理解できますか。理解できますか。

金曜日の夜、日が暮れれば土曜日になって、安息日になり全ての荷を下ろすわけです。

安息日は何と言うでしょう。みなさん、みんな苦労してますね。私のところに来て私がその荷物を降ろしてあげるから。

安息日が私たちをその罪の誘惑から脱がせてくれます。安息日は何て言うでしょう。

私のところに来なさい。私があなたがたを休ませよう、そうですね。安息日に会えればいったいどんな荷物があっても休めるわけですね。聖書読んでみたら、

これを誰が話すのか、イエスさまがおっしゃるわけです。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。あなたがたにやすらぎを与えましょう」と。そしてその安息日は、律法はこれから来る素晴らしいものの影であって、実物そのものではないですから、その安息日は後から来るものの影、つまりイエスさまの影であります

安息日になったら、どんなに荷があっても自由を得るわけです。イエスさま私たちがイエスさまの前に出た時、どんな罪があってもその罪から自由を得られるようにしてくださいました。

エスさまは御言葉でこのように言われました。

「すべて疲れた人、重荷を負ってる人は私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」アーメン。

エスさまは私たちを休ませるために、イエスさまが私たちの罪の重荷を全て負ってくださいました。私たちを自由にさせて下さったんです。そのイエスさまを心から会った時に、私はもうそれ以上罪人ではないわけです。なぜでしょう。イエスさまが私たちの罪ために十字架につけられこの全ての罪を洗い流してくださったからです。イエスさまが十字架につけられ、もしこの罪が洗い流せていないなら十字架は失敗のほかしかありません

みなさん、ここを聖書で言っていました。

へブルの10章で何と言ってるでしょうか。

「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから」

と言っていました。

これはどうでしょう。律法で言う全てのものは、まずその過ぎ越しの祭りで罪の贖いをすませますが、羊をほふってはその血を門のかもいに塗れば、その家の人は誰も死にません。その羊はイエスさまを指すわけです。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」

ヘブルの10章では言いました。

旧約聖書で羊をほふって、いけにえを捧げたのはイエスさまがいらっしゃって、私たちを罪から救うことを表すためであり、安息日にこの全ての罪を除けるのは、イエスさまが私の中に入ってこの全ての罪を記憶し、すぐ全ての罪を洗い流し、そして負ってくださることを意味するわけです。

みなさん大事なことは、本当に私たちはこれを知らなければいけません。

エスさまはこれから亡くなりますか、それともすでに亡くなりましたか。もうイエスさまはすでに亡くなられました。以前いた人々はイエスさまがこの世にいらっしゃって、亡くなることを先に信じたわけです。

私たちはイエス・キリストが私たちのすべての罪を、そのすべての罰をお受けになったと信じるわけですね。アーメン。

今ヘブルはそれを話しています。

10章の8節に

すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、"

旧約聖書で羊を通して捧げるこのいけにえは罪を贖うことはしますが、しかし完全に贖うのではなく、その時だけ贖います。罪を犯した日にまたいけにえを捧げてそれを繰り返さなければいけません。

だから神様は羊ややぎのいけにえをそれ以上望まず、満足されなかったと言います。なぜなら、それは律法によるものだからです。満足されなかった主がなされたことは、

8節

主はいけにえとささげ物とを喜びませんでした。

7節

『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』

羊や牛をほふって、また罪を犯してまた罪を犯して、羊のその血は永遠に罪を贖うことができませんが、これをもって私たちはその完全に捧げることができませんので、そこでこの聖書の中の巻きで私について記されてあるとおり、イエスさまが旧約聖書で言われましたね。

特にイザヤはイエスさまが来られる700年前に言われましたが、イエスさまがいらっしゃって私たちの全ての罪から贖うことを詳しく説明されました。イザヤに記録されたとおりに私たちの罪のために主は亡くなるためにいらっしゃいました。

 聖書の中の巻きで私について記されてあるとおり、これはただ死ぬためではなく、私たちを罪から解放させるためにいらっしゃったのであります。神さまのみこころはイエスさまを十字架に付けられて私たちを解放することにありました。イエスさまが十字架につけられ私たちの罪を贖えないことを主が望んだのではありません。そして十字架につけられ、私たちの罪を贖うことが、神さまのみこころでありました

 

このみこころに従ってイエスさまは私たちの罪のために亡くなりました。そして、私たちの罪のすべてを贖ったと聖書では話すのです。

8節

すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、

9節

また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。

前者とは羊や子牛を奉げるいけにえであって、2つ目後者とはイエスさまが私たちのために十字架で亡くなることを指します。

10節を見てみましょう。

10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。と。

 

私たちは自分の思いではなく、神さまの御言葉を信じるべきであります。皆さんそうですか。私の思いでは罪を犯したから罪人です。これは私たちの考えですが、神さまの御言葉はこのみこころに従ってイエスキリストの体がただ一度だけ捧げられたことによって、聖なるものになったと言われます。

私もいつも自分のことを罪人だと言ったもんです。

罪を犯し、そして罪人でありましたが、しかし聖書ではこのように話しました。

私たちはこの聖なるものになったと、私たちがこの義人になったと言いました。

罪がないと言いました。

神さまはイエス様が十字架の血によって、私たちの罪がきよめられたとおっしゃいます。

今日韓国にいる韓国の多くのキリスト教指導者はイエスさまが十字架につけてなくなりましたが、私たちは罪人ですと主張します。

皆さん聖書の御言葉を信じますか、キリスト教指導者の言葉を信じますか。

聖書に帰るべきです。聖書では私たちの罪はすでに赦されたと言いました。

エスさまの血によって私たちが義人になったと言いました。

 

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。と言っているわけです。

 

聖書が義人だとおっしゃっているなら義人なんです。

聖書が罪を贖ったと言うなら、その罪は贖われたんです。

聖書が聖なるものとおっしゃるなら聖なるもんなんです。

私たちのその考えを信じないで聖書を信じましょう。

19歳になるまで、私は罪人だと言いました。

私は罪をたくさん犯しましたし嘘もたくさんついたし、泥棒だってたくさんしました。

自分は間違いなく地獄に行くわけです。

 

19歳の時に聖書を読んで驚く事実を発見しました。

私は罪人だと言ったんです。

なぜ。罪を犯したからです。

エスさまは私が罪を犯したことを、ご存知で悪なことをご存知でありながら、驚くことに私に

義人だとおっしゃったんです。

そして聖なるものだと言われました。

私はそのイエス様の御言葉を信じるために、昔の全てのその想いを全て捨てました。

アーメン、アーメン。

 

今現在たくさんの教会は、こう話すんです。

 

エスさまが十字架につけられてなくなりましたが、私達はいぜんと罪人だと。

これはつまり十字架が失敗したということです。

どんなに間違った話でありましょう。

10節

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

11節

また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、

これは瞬間的に罪を贖うてことですね。

12節

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後

アーメン

私たちの主が永遠に罪を除き去りました。

神の右の座につき

13節

それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

イエス・キリストのその敵とは誰でしょう。

十字架で私たちの罪をすべて贖いましたが、違う私たちは罪人だ。それはつまりイエスさまが十字架で失敗したということを意味します。それはイエスさまの敵であります。

その敵がイエス様のその足台になるまで主が待っておられるということです

次に14節はみなさんの心を崩し、新しい心を持たせます。

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

私たちが見たとき、そんなに優れたように見えませんが、私たちが見たとき、まだ咎があるようで、まだ罪があるように見えますが、しかし聖書の御言葉では私たちは永遠にに全うされたと言われました。だから私はそれまでに自分が罪人で罪をたくさん犯したものであることを知りました。

その時から自分の思いを捨ててイエス様の御言葉を信じました。

もう私は義人だ。永遠に。

聖なるもので、そして完璧に行った、と。

 

15節

聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。

16節

「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」

自分の法をイエスさまが生きてきたその法をイエスさまの思いを私の中に入れてくれるわけです。

私たちに義人だと言われました。

17節 もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。

 18節 こういうわけですから兄弟たち、私たちはもう二度と罪のいけにえを捧げる必要がないわけです。

チェ・スヨンという学生に話しました。

スヨン、あなたは脊髄炎にかかったけど、イエス様があなたの中に働けばそれは何でもないんだ。大事なことはあなたの考えよりイエス様の御言葉を信じることだ。イエスさまとあなたと心が一つになれば、神様がこのすべての病気を治し、そしてそれは問題にならないと話しました。

スヨンの頭の上に手を乗せてお祈りをし始めたんです。スヨン、もう歩きなさい。

神さまの前で歩いていきなさい。

そして、スヨンを帰らせて、私はソウルにもどりました。

3ヶ月が経った頃手紙が遅れてきたんですよ。

 赤い花柄の封筒に本当にゴマのような文字で女の子ですが。

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パク先生こんにちは。私はクミにいるチェ・スヨンという学生です、覚えていますか。

何よりもとても感謝の気持ちでパク牧師先生に伝えたいと思って文字を書いて送ります。

昨年のウルサンの集会が終わって、クミに来られて早朝礼拝で御言葉を伝えて、私に按手もしてくださいましたね。

必ず歩くという先生の言葉が忘れられませんでした。

 

病院では一生歩けないという話を聞きましたが、パク先生が心の中にあるその信仰を私に伝えてくださり、私はそれを受けただけです。今は手すりもいりません。

ただ歩いて歩いて、今はこのように字も書けるようになりました。

私は何もしたことがありません。

私が歩きたくて歩き、歩いて倒れはしましたが、パク先生の御言葉をそのまま受け入れて、お祈りして信じただけです。

 

脊髄炎の判定を受けてこのように私が歩くようになるまで、我が家の家庭の中にもいろんな変化がありました。

神様の方に心を定めるようになりました。

霊的にもまだ幼い心でありますが、少し成長したようです。

今またトベルを臨床試験の対象者で飲んでいますが、誰かが触ったりつねったりすることを感覚できるようになりました

 

非常に驚きました。そして、大便も小便も感じますし、力もできて今は字も書けるなって、そして膝もあげたり非常に本当に不思議です。

パク先生が私が歩くのを見たら非常に喜ばれると思います。次今度お会いします、お会いしましょう。

 

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1ヶ月後にスヨンは私の事務所にやって来ました。お父さんお母さんと一緒に。本当に嬉しかったです。スヨンの手を取って事務所を一周したんです。今はもうかなり前のことですが、私に今は結婚させてくれと言うんです。もう結婚する年にもなりました。体もかなり健康になって今いろんな国を回って証をしています。そのお嬢さんが19歳になって、もして死にかかっていた時、彼女がしたことは何にもありません。イエスさまの御言葉を心の中に受け入れただけです。

 皆さん中にあるたくさんの考えがあって、たくさんの話が聞こえるはずです。そのたくさんの思いとイエス様の思いは異なりますが、イエスさまの心が、皆様の心を捨てて、そして皆さんの心に留まることを願います。

みなさんの全ての考えを捨ててイエスさまの御言葉を信じてください。イエスさまが十字架で自分の全ての罪を贖ったことを信じてください。自分がもう全うされたことを信じてください。イエスさまた私たちに義人だと言われました。そして聖なるものと言われました。

私もそうでした。19歳の頃はたくさん罪を犯し罪人なんです。しかし、イエスさまが義人だと言われたら義人なんだ、とそのように信じました。その時からイエスさまが私の中に入ったんです。私を導きました。死んでいくたくさんの人々が生き返るの見ました。もし皆さん中にイエスさまがいらっしゃれば、皆さんが生きる理由ではありません。イエスさまが皆さん中で生きることになります。どんなことが起きても、イエスさまは解決してくださいます。だから明るい生活になるでしょう。

聖書の中でイエスさまは私たちは義人だと言われました。私はイエスさまと戦いました。いや私は罪人です。私はたくさん罪を犯しました。私はたくさん物を盗んで、罪人なんです。イエスさまは私を見て笑いました。ああ、よくわかっているよ。でもそのすべての罪も私が十字架で罰を受けたんだ。そして主がかかげられ、私は主を信じました。主が私を義人にした事実を悟りました。そして、イエスさまと一つになったんです。その時から私が話すことがイエスさまの言葉なることが多くありました。

病気を私は治すことはできません。私はチェ・スヨンに何もできませんが、しかし神さまが彼女を愛しました。ある日、夜クミ教会に行って起きて、後から知ったことですが、スヨンが家族とパク先生の前に行ってお祈りしてもらうのが、一生の願いだったそうです。でもクミからソウルまで彼女は行けなかったのです。なぜなら何度もその間にトイレを済ませなければいけませんが、でも機械で小便を取り出しますから、結局ソウルまでは行けなかったわけです。

でもその家族はお祈りしたそうです

神さま、パク牧師先生がクミに来れるようにしてください。私はその夜クミに行くことなんて、考えてもいませんでした。テグ(大邱)で寝て行こうと思ったんですよ。でもこの車の中でいろいろ話をしているうちに通り過ぎてしまいました。

その次がクミだったんですよ。一晩寝てスヨンと会いました。本当に尊い神の娘となりました。その翌年はワールドキャンプのマラソンで、800人中300位だったそうです。ここはスヨンが見えないですね。右側にいます。この子がスヨンですか。今歯を食いしばって走ってますね。後ろの子達は歩いてるようですね。スヨンなんですね。800人中300位だったそうです。

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それまでいろんな難しいことがありましたが、イエスさまの力によって全て勝ちました。神様がスヨンと共におられました。

皆さん、今日この朝皆さんに聞きたいです。

皆さんがどんな心があっても全て捨てて、皆様の心に合っていても、合っていなくてもイエス様の心を受け入れる準備がなされていますか。イエスさまは皆さんに「聖なるものだ」と言われました。羊や山羊によってその罪はすべて洗い流せないので、イエスさまの血で私たちの罪の全てを洗い流されました。皆さんそれだけ信じないで、イエスさまの御言葉を信じてください。

エスさまの御言葉が皆さんの心の中にあれば、皆さんの人生をイエスさまが担って下さるでしょう。祝福され美しい人生になること信じます。

 

お祈りいたします。

聖なる父なる神さま感謝します。

私たちは汚い罪人でありましたが、御言葉が義人だと言われました。

聖なるものだと言われました。

私たちはその御言葉を信じます。

主の御言葉であるので、私たちは聖なるものとなりました。

主が私たちの中で働いてくださると信じます

我々全員にとって、イエスさまが主人になることと願います。

今、御言葉を聞くたくさんの人々が、罪から逃れ、そして明るく幸せな人生を歩めるようにしてください。

感謝いたします。

イエス・キリストの御名によってお祈り致しました、アーメン。

ありがとうございました。