パク・オクス牧師 証集 「からし種ひと粒」 兄弟はお父様がいらっしゃいますか?
パクオクス牧師 証集
からし種ひと粒
パク・オクス牧師が経験した神様と信仰の人生のともしび
イエス様おひとりだけを見つめて歩んできた信仰の道40年余り (韓国語初版2007年2月26日)
空腹もか弱さもイエス様の中で、すべて輝かしい証を結ばせた
キリストの香りが漂う物語
兄弟はお父様がいらっしゃいますか?
宣教学校でディックヨーク宣教師様の下で信仰訓練を受ける時であった。 必要な全てのものを人に求めたり、どんな暗示を与えてもいけなかったし、ただ神様に求めなければいけなかった。 当時わが国はお腹をすかして貧しい国であった。
ディック宣教師様はアメリカに手紙一通だけ送れば困難を経験しないのに、飢えたり寒い部屋で震えて過ごしながらも神様だけを頼った。
訓練を受ける私たちも食べ物が無くなってしばしば飢えたが、その日も食べ物がなくて朝食時間に囲んで座ってお湯を飲んでいた。 宣教師様がそれを見て行かれると一人ずつ呼んで面談され始めた。 私の順番がきた。
「朝食食べましたか」
「いいえ、飢えました」
「なぜ飢えましたか」
「食べ物がなくて飢えました」
食べ物がなくて飢えたのがどうして私の過ちなのだろうか。
「なぜ食べ物がないですか」
食べ物買うお金がないということが明らかにご存知なのに、なぜそう尋ねるか理解できなかった。 それで返事しないでじっとしていたが、また尋ねられた。
「パクオクス兄弟はお父様がいらっしゃいますか」
私には肉の父も、神様のお父様もみなおられたから
「はい、おられます」と答えた。
「お父さんに食べ物を願えばくれますか、くれないですか」
『ああ、聖書には求めればくれるとなっているが、実際にはどうだろうか』と内心考えた。
神様を信じると言っても御言葉はあくまでも御言葉で、それが私の人生とは特別関係がなかった。 ところでその日の面談は私に重ね重ね忘れられなかった。
御言葉を伝えるたびに、神様が私たちのすべての罪をみな洗ったと聖書に記録されているが、それはあくまでも聖書の御言葉で、実際には多くの人々に心に罪が残っているのを見ることができた。
いくら聖書をたくさん分かっても、心の罪を洗うことが出来なかった人にはそれが理論であって信仰ではない。 聖書の御言葉は理論でなく、生きておられる神様の能力だ。 実際に私の人生の中で働かれる神様を信じているのか。
実際に私の人生の中にそのまま成し遂げる能力の御言葉か。 神様が助けられるということを信じることができない時、人間に助けを求めて人間的な方法を使うほかはない。 私は神様だけを頼って生きていって、神様おひとりだけを頼って福音の仕事をする方法をその時から習い始めた。