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グッドニュース ブンダン教会夫人の証し(シムホンソプ伝道師の奥様)

グッドニュース誌 2017年7月号

ひとつの恨みを抱いて生きる人生だったが、今は笑う

ジョンジョンスク(グッドニュース ブンダン教会夫人)

 

特別の証しシリーズ家族の話2

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私の人生に4人の男があった。父、兄、夫、息子。父も亡くなり、兄も若い年齢で世を去り、息子も死んだ。最後に、夫が残った。荷物がどれほど重いか

若い年齢で父親と兄の死を見て非常に悲しかった。早春花冷えに花が咲くこともできず、真っ黒に落ちてしまったかのように私の子供の頃もそうだった。 「人は死んだらどこに行くのか?」夫と息子を失った母親は、時々飲めないお酒を飲みながら涙を流しました。早くから人生に虚しさを感じ、楽しいこともなかった。

 

24歳の時たくさん痛かった。通っていた仕事を3ヶ月間休んである日起きて銭湯に行って、体がとても弱くてシャワーをあびた瞬間倒れた。誰かが私に水をかけてくれ話しかけた。我に返って起き鏡を見ると、額があざになっていた。ざっと洗って家に行って、借りたビデオテープを返却しようとして行ったが、銭湯で出会った方々にもう一度会った。後で分かったが、宣教学校で訓練される方だった。朴玉洙牧師が導く伝道集会に同行して来たのだ。その方たちが集会に行こうととても勧めるので、私のような人にそれほど心を注ぎ与えることがありがたく、ついて行った。

 

集会に参加して御言葉を聞いたが、何の意味か理解できなかった。それでも私の人生には、道がなかったので、毎日教会を訪れた。1ヶ月間御言葉を聞いたが、まだ何を言っているのかわからなかった。牧師と信仰の交わりを終えて出ると、若い姉妹が毎回 「娘さん、救われましたか?」と聞いて「救い」という言葉が心に刻まれた。程なくして修養会があり、私もそこに行ってみたかった。

 

忠清北道にある背の低い松林。黒い遮光膜が張られた「福音組」で御言葉を聞いて、ある瞬間、私の罪の重荷がおろされた。私の背には大きな荷物が一つあった。その荷物がどれほど重いか、それを剥がしてくれる人を見つけて、その日私はその荷物を初めて降ろしたのだ。 「これらのことが赦されるところでは、罪のささげ物はもはや無用です。」(ヘブル10:18)私の罪をすべて洗い流してくださったイエス様... 。限りなく平安だ。修養会を終えて帰ってきて、毎日教会に行った。

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終わりのない暗い長いトンネル

28歳の時、お盆の前に私は通っていたグッドニュース真珠(チンジュ)教会の牧師の斡旋で、今の夫と見合いをした。教会が紹介してくれた人だったので、結婚することに心を決めた。しばらくの後、私たちは教会の社宅で部屋一間をいただき、新婚生活を始めた。

 

3ヶ月ほど経っただろうか、夫が仕事帰りにお酒を飲んで来た。それは夫が20年間酒に溺れて過ごした人生の始まりだった。時間が経つにつれ、夫は酒により深く溺れた。何度も離婚を考えて、憎み、心の中​​で夫を殺した。夫のために私の人生が壊れたと恨みの中で暮らしていた。

 

終わりのない暗い長いトンネル... ! 「いつ、ここから出ることができるか?」本当に抜け出したかった。その人生はあまりにも嫌だった。どこでも休めず、つらく、心が疲れ果てた。

 

1999年5月には、夫の故郷である陜川(ハプチョン)に引っ越しをした。そしてその年の9月に次男が死亡した。私はほとんど正気の人ではなかった。夫は状態がひどくなって、娘も大変だった。私は何の希望なしに教会に通った。

 

牧師に必ず一度お会いしたかったのです

歳月が流れ、そのように恨んだ夫がかわいそうに見えた。夫は酒を飲んで暴れたが、いつも私のそばで寝た。酒の臭い、足の臭い... 、本当に嫌だった。親も、兄弟も、妻も、娘も、近所の人も、職場の同僚も好きではなかった。部屋にこもって酒を飲む夫が本当に寂しいという気持ちがした。酒をやめようと、あれこれしたがだめだった。アルコール病院にも入院させてみたが無駄だった。

 

道がなかった。 「最後に朴玉洙牧師に行ってみよう」という気がした。変わらないような若者が牧師に会って、新しい生活を始めることを見て「牧師さまならできる」という望みが一筋の光で私の心を照らしていた。

 

数年が流れ、2013年12月だった。真珠(チンジュ)のグラシアス合唱団のクリスマスカンタータ公演があった日、朴玉洙牧師が真珠に来られた。そしてその夜に牧師が陜川(ハプチョン)教会を訪問された。カンタータ公演を見て家に行くのだが、教会の牧師が私に電話して、教会に来るように言われた。

 

教会社宅に行くと、何人かの牧師や教会の聖徒たちが座っていた。私たちの教会の牧師が朴牧師に教会の聖徒たちを一人一人紹介した。私を紹介したときに、私は「牧師さま、私は牧師さまに必ず一度お会いしたかった!」と申し上げた。牧師が近く来るように言われ理由を尋ねられた。夫の話を申し上げてると、牧師が翌日早朝に夫を連れて来るようにと言われた。

 

・・・続きその1へ

原文は韓国語です。 グッドニュース宣教会の韓国語のホームページから訪問できます。

水原(スオン)シムホンソプ伝道師の証し集会

水原(スオン)シムホンソプ伝道師の証し集会 

罪に死んだ私たちをキリストとともに生かし

 

2018年2月1日(木)から3日(土)までの3日間に渡ってグッドニュース水原教会にシムホンソプ伝道師(グッドニュースブンダン教会)を招き、「心に流れる幸せな話」というタイトルで証し集会を開いた。短い期間でしたが、水原教会の兄弟姉妹たちは、チラシを配り人々を招待し、今回の集会期間20人あまりの新しい人が参加した。

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シムホンソプ伝道師

初日の夜、ブニエル合唱団女性重唱の賛美「神の約束」で集会の扉を開いた。講壇の前に立ったシム伝道師はルカ15章の御言葉を読みながら証しを始めた。放蕩息子の次男のように、自分もよく生きてみようとしたが無駄で放蕩して、最終的に飢え死の位置まで行くしかなかった自分の話を一つ一つ取り出して、何でもない自分を福音と会うことができるよう導かれた神の恵みを伝えた。特に初日の夜には、シルバー大学のシルバー生たちが参加して、シム伝道師の証しに心に共感し御言葉を聞いた。

 

二日目には、20年間あまり、酒に溺れていた自分を解放してくれた朴玉洙牧師との交わりの時間を証しした。 「シム兄弟、あなたが知らないことがある。あなたが御言葉を信じないからそうなの。あなたは十字架ですでに終わった。自分を信じないで。」自分を見つめていた心から「一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」という御言葉に移してくれたしもべの信仰の前に感激した心を伝えた。これまで伝え聞いた証しを、直接生々しく聞いた水原教会の兄弟姉妹たちは、神のなされたことに驚き、主の前に望みの心を抱いた。

 

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シムホンソプ伝道師の奥様

シムホンソプ伝道師が、20年の間にひたすら酒の人生を送ったという程度は知っていたが、3日間の証しと奥様の証しを聞いて、神様が二人の人生を導き、全うされたという御言葉で心を移したことに感謝しました。」(ユンミギョン姉妹)

 

  三日目、エペソ2章5節「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし〜」を叫んで、世の風に従ってサタンを追って生きていた自分を終わらせ、行いではなく恵みの世界の中に自分自身を移された神の愛を証しした。自分の信仰ではなく、しもべの信仰が自分を変化させたことに感謝した。

 

水原教会の兄弟の職場の同僚イグンジョ氏は3日間毎日集会に参加した。

  「前から教会に通いたかったのですが、7年前から知っていた仲間の勧めでようやく教会の集会に出席しました。最近足を痛めてひとりで生きていくのに大変なことがたくさんありました。講師と3日間交わりをして私の罪が洗われたと信じたし、私は天国に行くということが感謝です。」と喜びを隠せなかった。

 

  神のいつくしみがシムホンソプ伝道師を導いてきた証しの中にひたされて今回の集会期間、連日厳しい寒さに凍った天気だったが、御言葉と証しのぬくもりに心が温かくなった時間だった。 2018年新年の御言葉に従って水原の地にも福音が鳴り響く祝福の時間だった。

 

 

原文は韓国語です。 グッドニュース宣教会の韓国語のホームページから訪問できます。

宣教師の手記 3話 グッドニュースバンコク教会 キム・ハクチョル宣教師

2020年3月号グッドニュース(韓国語から転用させていただきました)
宣教師の手記_キム・ハクチョル宣教師編(3話)

 

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宣教学校と軍隊での神の導き

 

タイで25年余り宣教している間、「どうしてこのようなことが起こるのか?」と思うほど私の人生からは想像できなかったことに会った。そのことを解決する力が私にはなかったので、神に任せるのが平安で、すべてが一つ一つ、神の手によって行われた。私がタイで宣教することができるよう、安全に導いて下さった神様は、私が若い頃に宣教学校と軍隊で経験したいくつかのことを通し、私の心ではなく、御言葉に頼って生きる方法を教えてくれた。

神は私を無力にさせた
 使徒12章6節に「... ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。」と出てくる。ペテロは明日死ぬかもしれないのに深く寝ていた。手足が縛られたまま刑務所に閉じ込められたペテロは、自分がその状況から逃れるどんな力もなかったので、神様に完全に委ねて眠りに入ったのだ。私の人生がそうだった。私が歩んできた人生を静かに考えてみると、まるで眠っているように見えた。
 大学を卒業して、家に帰って宣教学校(現マハナイム神学校)に行くと言ったら、父は「苦労して大学まで送ってあげたのに、それはどういう意味か?」と戸籍を抜くと言われたし、兄は「大学まで出て両親に小遣いを一度でもささげたのか?」と私を無視された。そのように心に多くの葛藤と負担を越えて宣教学校に入って行って、感謝することより、別の難しさが私を待っていた。
 宣教学校には、いくつかのルールがあって、ルールを犯した場合には、一緒に寝食する学生のうち、生活班長がいて彼がルールを破った生徒に掃除をさせたり、ご飯を一食食べられなくした。最近もそうだが、宣教学校の学校に新入生が入ってきて、新学期が始まると、一週間断食しながら、聖書を一度すべて読む時間を持つ。私も入学して一週間断食しながら、聖書をすべて読んだ。そしていよいよ待ちに待った食事の時間になった。ところが、時間を30秒破ったと、生活班長が一食断食しろと言った。どうしようもなくて何も言えなかった。
 他の学生も私を見てもどかしいと、特にむずかしくするようだった。 6ヶ月が過ぎた頃、ソウルの地理をよく知っている兄弟と一緒に人の家に訪問に行った。地下鉄を一時間乗って、ふたたびバスに乗ってハプチョンドンのある洋服店を訪れた。一緒に行った兄弟が私に「そこで働く兄弟と交わりをするからと、あなたは他の所に立ち寄って戻って来て」と言った。私は洋服店の主人の顔色を見て、兄弟に言葉を伝えた後、外で待っていた。ところが、いくら待っても一緒に行った兄弟が来なかった。
 お金はなくて、どのようにしたらよいか困り果てた。田舎者でソウルの地理をよく知らなくて、前に聖書の勉強をしていた中央大学に通う兄弟の自炊生活の家が思い出して、2時間で行くだろうと思って歩いた。ところが七時間をかけて午前1時になってようやく、その家に着くことができた。ところが、家のドアはロックされており、家には誰もいなかった。どうすることもできず、近くにある礼拝堂に入って中層階で睡眠をとった。人々の祈りの声が聞こえて目を覚ますと、朝4時半だった。サッと目を覚まし、またとめどなく歩いて午後3時になってようやく宣教学校に到着した。一緒に行った兄弟に、なぜ私は置いて行ったかと尋ねた。

うっかり忘れて一人で帰ってきて申し訳ありませんと言うと思ったが、「なぜこのように苦労して来たの?バスの運転手に交通費がないから、一度だけ乗せてもらうように事情を話して乗ってくればいいじゃないか」と言った。私はその話を聞いて何と答えたらいいか思いつかなかった。
 振り返ってみると、その時、神様が私を無力にさせた。私に力があって正気であったら、私が見て不当であることは、その事と戦って勝とうとしたであろう。ところが、私は戦う力もなく、訴えもしなかった。
「すると突然、主の御使いが現れ…鎖が彼の手から落ちた。...御使がまた言った。上着を着てついてきなさい」そこでペテロは外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしていることが現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。」(使徒12:7〜9)
御使がペテロを牢から引き出すのだが、ペテロは深く寝ていたので、自分が幻想を見ていると思った。
「... そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」と言って(使徒12:10〜11)

ここでペテロが「真実」と言うが、真実なのか夢なのか知らずに御使に従って歩いたということだ。
 ペテロが監獄に閉じ込められことと比較することができませんが、私の宣教学校で、多くの場合、理解できない困難を経験したが、眠っていたので、何が起こっているのかも正確に知らないまま過ごした。後ですべてのことから離れて自由になってはじめて、その時、神様が私を眠るようにされたという事実を知った。
 聖書は、「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:6)と言った。

私たちは、時には誤解を受けて無視をされるが、時が来れば神が私たちを高くしてくださる。悔しいことにあうとき、神様に任せて寝ていると、時が来れば神が解決してくださるということである。私はこの言葉を頼りにして信仰の道を歩いてきて、時間が経って振り返ってみると、すべての問題が解決されていた。ペテロの前で刑務所のドアが自然に開かれたかのようだ。

純金のように造られるのだなぁ
 私はすべての問題の前で黙っていただけではない。軍生活は私に宣教学校で学んだものとは異なることを教えてくれた。聖書の御言葉の前で私の悪の心を発見することができ、その心を捨てることができる時間であった。
 1985年に宣教学校に入学して8ヶ月程度過ごした後、入隊した。遅い年齢で軍隊に行けばたくさん苦労するようで、将校に行くために試験を受けたが、最終的に体力測定をした日に食あたりを起こし願いがかなわず下士官兵士に行った。軍隊に行って苦労することを考えると恐れていたが、ある日聖書の聖句一つが目に入った。
キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」(Ⅱテモテ2:3〜4)
将校でない位置が最も低い兵士でいくと、私は神のしもべとしてどんな心を持たなければならないかどうかを学ぶことができるようだった。
 論山(ノンサン)訓練所に入所した最初の日、宗教的行事をすると言い、軍隊の教会に入ってみると、長く縁取られた大きなプラカードの

しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(ヨブ23: 10)と書かれていた。

熱い溶鉱炉から純金を得るように、神の溶鉱炉のような軍隊で私を鍛えて純金のように造られるという御言葉を心に刻みながら訓練を受けた。訓練所生活を終えて前方の工兵部隊に配置された。ところが、私は行政兵士となり、外で苦労する戦友たちとは異なり、オフィスで精神的に苦痛を受け辛い時間を過ごした。

私を困らせた古参
 行政兵士になって、オフィスに行くと直属古参がハングルの「ㄱ」から書く練習をさせた。教えてくれた通り同じ書けなくて「おれはこのように書くなと言ったじゃないか!」と厳しく怒り、字体が思うように早く直らなかった。文字のために私より二歳若く体格も小さくやせたた古参にたくさん殴られて気合を受けた。

ある時古参が本当に怒って50センチの定規で頭のてっぺんをたたき、軍靴でわき腹を蹴り倒してしまった。そしてウォンサン爆撃(写真参照)を20分間受けた。鬱憤が上がってきたが、軍隊ではさせるようにするしかなかった。

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ウォンサン爆撃 イメージ写真です。本人の写真ではありません。

 私が服務していた部隊の教会には、牧師がなく担当兵だけがいた。教会には50人ほどの兵士が集まったが、担当兵士は御言葉を伝えられないから私を見て御言葉を伝えるように言った。毎週、担当兵士が礼拝を導き、私が御言葉を伝えたところ、私にはその時間が一番幸せだった。ところがある日曜日の朝に古参が「今日は絶対に教会に行ってはいけない。中隊長があなたの仕事をおれにさせた。おれはお前の仕事を助けたのだからお前は今日の礼拝に行くな」と言った。仕方なくわかりましたと言って、日曜日の朝から古参のオフィスで仕事をした。
 9時半になり、もう教会に行かなくてはいけないのに... 」と心の中で葛藤した。 10時近くなって古参がトイレに行くと席を空けたとき、心が動いた。 「今日は礼拝ささげて死のう!」と教会に走って行った。教会の人々がみな私を待っていたし、私はすぐに教壇に登って御言葉を伝えた。
 しばらく御言葉を伝えているとき、教会の裏口が少し開いたところに古参の顔が見えた。古参が出てくると手招きする無視して説教を続けた。すると古参が拳を握り締め見せ「お前もう死んでいる!」と信号を送って帰った。時間説教を終え降りてくるから、ようやく正気に戻った。 「私は狂った!オフィスに行くと古参が棒を持って、私を待っている。」不安な気持ちでオフィスに入ると幸い古参がなかった。ところが、オフィスの隣に付いている内務班に入るやいなや、古参の軍靴が私の顔に飛んできた。その日はどれくらい殴られたか、すぐに医務室に入院しなければならなかった。

希望が悔しい心に勝った
 病室に横たわっているがいろんな考えが上がってきた。「中隊長に報告して営倉(懲罰房)に行こうか?」「私は実弾倉庫の鍵を管理するので、銃に実弾を入れて撃ってしまおうか?」そんな目に会っても神もまったく理解していないようで恨んだ。私は悪いことをしたわけでもなく、説教しただけなのに、こんなにまで受けなければならないのが納得できなかった。軍隊に来る前に、心に抱いていた言葉を思い出した。

 「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」(Ⅱテモテ2:3)考えが続いた。

 「私は本当に神の兵士か?」神の兵士なら悔しいことにあっても、感情にとらわれず、勝つことができなくてはいけないですが、私の心には悔しさと恨みが満ちていた。福音のために苦しんでいることより、悔しい気持ちを持つ私は神の兵士ではなかった。

使徒16章を見ると、使徒パウロが管理者に打たれ、刑務所に閉じ込められた。ところが、25節を見れば「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」という内容が出てくる。パウロはその大きな苦難を受けても悔しい気持ちを持たなかった。むしろ、神を賛美した。ところが、私はパウロが経験したことと比較することができず、小さな苦難を受けても、心が怒りに満ちたものである。

最初は一体なぜそんなことを受けなければならないか理解できなかったが、御言葉を一つずつたどりながら知ることができた。私の知恵と能力を損なうことなく、それに生きようとするから、神様がそのようなことに会わせてしまうのである。神がくやしいことを通して、私の心の邪悪なものをすべて明らかに「君がその心を抱いて生きるなら君は死ぬ。だから、すべて捨てて御言葉を頼りにして生きて」と言われた。神様が私を溶鉱炉のようなところに入れて訓練して純金に作っておられた。その事実を知ると、心に希望が起こり、悔しい気持ちに勝つことができる力が生じた。そのように私の能力ではなく、神の全能の手が私を導き始めた。

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 傷を直接洗っていただき

 しばらくして、私をそのように困らせた古参が除隊した。私は古参になり、私の席に新しい後継者が入ってきた。ある日、その後任が私に言った。

「キム兵長様、以前聖書の勉強をたくさんされたという話を聞いた私も聖書を学びたいです。」

私は笑って、後任にこう言った。

「私はあなたに福音を伝えない。他の人はみんな救われてもお前は救われたらダメ。お前が救われれば、お前が間違ったときに、私はお前を殴れないじゃないか。」

ところが、時間が経ってみると、私はその後継者に福音を伝えていて、後任が救われた。その後任が今、カザフスタンで宣教しているパク・ソンス宣教師だ。私の後任が救われたとき、昔の私は古参に不当に殴られた傷が心の中で跡形もなくきれいに洗われていた。私自身が洗ったのではなく、神が私の傷を洗ってくれたのだ。そのほかにもその福音を聞いて救われた人の中の一つが、今フィジーで福音を伝えているヤンウンギ(ジェームス・ヤン)宣教師だ。このように、神のしもべが起こったので、古参にそれほど殴られたことに見合うものはないだろう。

私は使徒16章33節を見れば、とても幸せである。

看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。...」こんな世界が神の世界であった。使徒パウロが閉じ込められた監獄の看守がパウロの傷を直接洗浄するこのシーンがあまりにも美しい。神はこの場面を私の人生にも許してくれた。

歳月が過ぎて知った事実は、幸せと感謝は、私の手にない、神が私に作ってくださるという事実である。私もそのように導かれる神を見たときに賛美するしかない。そんな神様が私とともに行かれるという事実があまりにも幸せである。

 

・・・4話に続く

 

 

宣教師の手記 2話 グッドニュースバンコク教会 キム・ハクチョル宣教師

 

2020年2月号グッドニュース(韓国語から転用させていただきました)
宣教師の手記_キム・ハクチョル宣教師編(2話)

 

神さまが私に新しい人生を与えられた

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熱心に勉強して行った大学で挫折したキム・ハクチョル宣教師は偶然知り合った全州(チョンジュ)平安教会を訪れた。そこで一ヶ月間福音を聞いても理解できなかったが、ローマ書を読んで、自分が罪人であるという事実を発見し、救われた。

 ルカ13章に出てくる悪霊につかれ18年の間、腰を曲げて生きていた女性の姿がまさに熱心に生きれば幸せだと信じて生きていた私の心の姿だった。その日も図書館に早く行ってもいい席を取り本を読んだが、まったく集中できなかった。外に出て、廊下でタバコを吸った。ところが、反対側の廊下の端で私の友人と先輩が深刻に話をする姿が見られた。「向こうで何してるんだろう?」近くに行った。先輩が友人に尋ねた。「もし今日死ぬなら怖くない?」私の耳に聞こえてきた先輩の質問に、「今日死ぬなら誰でも怖いさ。あれは何の質問かな?じゃあ、この世の中に今死んでも怖くない人がいるのか?変わった不思議な質問があるね。」と思った。先輩の質問を受けた友人は1分間何も言わなかった。先輩が再び口を開いた。「私は今死んでも怖くない」

その瞬間、私はショックを受けた。「どうして人が死の前にして怖くないと言えるの?」先輩が友人に伝道しているという事実を知って、伝道が終わった後、その先輩に声をかけた。
「先輩、教会に通ってますか?どの教会に通ってますか?」
「ああ、私たちの学校の前にある全州(チョンジュ)平安教会に通ってる」
「学校の前にそのような教会がありました?」
私はずっと教会に行きたいと聞いて表現したが、先輩は関心がなかった。善良そうなその友人だけに続けて教会に来るように言わないで、私が「私は行きますからね。」と言っても全く信じられない目つきだった。おそらく私のようにお酒が好きでタバコを吸う人は、教会に通うタイプではないと思っていたようだ。

 

初めて行った全州(チョンジュ)平安教会
 翌日の日曜日の朝、教会に一度行ってみたいという思いで下宿を出た。大学の前にある、鐘楼と十字架がある教会を訪れた。「ドクチン中央教会?ここ先輩が言った教会ではないね。」その横に、また大きな教会が見えるので行ってみると、やはり先輩が通う教会ではなかった。三、四教会を見つけたが、全州(チョンジュ)平安教会は見えなかった。

1時間ほど迷ったが「エイ、礼拝が終わってしまう。出てきたついでに、市内に行って映画など一本見ていこう」とバス停に向かった。バス停でバスを待ちながら周辺の建物を見まわして見ると、ある建物の3階に小さな看板がかかっていて、そこにペンキで書いたような字体で「全州(チョンジュ)平安教会」と書かれていた。私は鐘楼と十字架が立てられたところだけ教会と思ったので、そんなところに教会があるとは思ってもみなかった。
 
礼拝が終わっただろうが、それでも、一度行ってみようという考えで、建物の3階に上がってみると、教会ではなかった。ちょうどある人が、後ろにある非常階段で上がる教会があると教えてくれた。そこに行くと小ホールの中に人々が赤い座布団に座っていた。「これは何の教会なの?」し、ドアを閉め降りてくると、ある女性の方が、「教会に来てみたんでしょ?入ってください。」と言って私を引っぱって入った。まだ礼拝をささげていた。座っているのだが、あまりにも言う言葉がなかった。そのようにしてグッドニュース宣教会に初めて会った。

 

なぜ私は罪人なの?
 全州(チョンジュ)平安教会は信徒が20人ほど小さな教会であった。その教会に青年が自分の足で探してきたので、どれほど興味があるか。私を見る人ごとに福音を伝えてようとした。アダムによって、私は罪人になり、イエスが私の罪を背負って行かれたと言った。「今日も明日も罪を犯し、どのように私の罪がイエスに移ったの?」言葉は理解しますが、まったく信じられなかった。そうして一ヶ月ほど経つと「大学生がなぜあのようにもどかしいの?」という声が聞こえてきた。教会に行くのが嫌になって、私を見ると罪人だと言うので怒った。「私が殺人をした、姦淫をした、詐欺をした?なぜ私は罪人なの?善良に勉強だけして暮らしていた!」

毎日学校でも教会でも、聖書の勉強をしたので、月に40回読んで勉強したが、救いを受けられず、息苦しさがますます大きくなった。ある日教会に行ったら先生がローマ書1章から10章まで熱読してみろと言った。読もうとして聖書を開いて単語が不慣れで理解できなかった。何とか読もうじわじわ読んでも何を意味するのか分からなかった。結局、一章をきちんと読まないまま、聖書を閉じてタバコを手にした。

 

冗談ではなく、お酒を飲みに行こう
 ある日私が通っていた土木課で現場実習を行って、バスに乗って山道をギリギリに上がって下を見下ろすと断崖であった。ともすればバスが墜落して死ぬだけだった。「私はまだ罪の許しを受けてなく、死んだら地獄に行くんだな。初めてこのような気がした。

次の日の休講なので朝からローマ書を再び読んだ。1章から10章まで二回読ん三回読んで、それを午前中読んでローマ1章28節目に入った。「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました」私がどんな人なのか、初めて聖書を通し発見した。心に神を知ろうとしたがらない、神から見捨てられた存在は、その人がまさに私であった。

続いて誹謗する者、高慢な者、誇る者、悪を図る者、親に逆らう者などは死刑に当たるという御言葉を読んだ。「誇る者」に私の目が止まった。私の中で「私もかつて勉強をよくした。それでも私は大学生だよ」という気持ちがあったからだ。盗みや姦淫や殺人だけでなく、自慢するのも罪であった。自慢したら、神の心では聞きたくない私が罪人であることが明らかになった。

私は罪人であってはいけない、「ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5:19)御言葉に目が留まった。「ああ、アダムが罪人だから、私が罪人になり、イエスが従順になったから、私が義人になることだね」と御言葉が心に入ろうとするやいなや、「キム・ハクチョル学生、電話が来た!」と下宿のおばさんが呼んだ。電話を受けてみると高校生の時一番親しかった友達だった。5年ぶりに連絡が届いた友人に会いに行った。

友達が嬉しいので酒を飲もうと言うだろうから、酒の席を避けようと劇場に連れて行った。映画を見ながら「どのようにこの場を避けようか?」と、そのことしか考えなかった。映画が終わると友人が「おい、さあ酒飲みに行こう。」と言った。その夜必ず福音を聞かなければならないので行くことができなかった。
「申し訳ない、俺は教会の牧師と約束がある。 」
「何?狂ったのか、お前が教会に行く?やあ、教会が滅びるな。冗談言わないで、お酒飲みに行こう。」
「いや、本当に約束がある。申し訳ない。俺が次の週にお前の家にたずねて行くよ。」
そう言って振り返って離れると背中で「このやろう、バカやろう」と友人の罵る声が聞こえた。

 

これだったんだ!
 教会に到着すると、牧師がひとりの若い女性と信仰相談をしていて、私を見て言われた。
「今日学生たちと必ず聖書の勉強をしたくて下宿に電話したところ、学生がいないといって残念だったが、よく来た。ここに座って。この若い女性も学生も状態が同じことだ。だから一緒に聞いてください。」
牧師は聖書研究を続け、私は隣に座って一緒に聞いた。

「ああ、わたしの苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」(イザヤ38:17)

牧師がこの聖句を読んで説明してくれた。「聖書には原罪や自己犯罪という言葉自体がありません。すべての罪と記録されています。私たちのすべての罪をイエスの背にゆだねた。」私は頭を持ち上げて天井を見つめた。「これだったんだ!私の罪と重荷がイエスにすべて移ったのだ。ところが、これを信じられず、私が背負っていたんだな。心があまりにも平安だった。飛ぶよう嬉しく、本当に幸せだった。

その時から、誰に会っても、首を上げたし、笑うことができた。友人が「お前、恋人できたの?なぜニコニコ笑って通うの?」と突然変わった私の姿に驚いた。私はお金がなくても幸せだった。「わらぶきの小さい家でも私は満足だね〜」という賛美を歌って通った。お金から、勉強から、罪からイエスが私を解放してくれた。神の御言葉が私の心に入ってきたとき、真の幸せが訪れたのだ。

ローマ書を読んで福音が私の心に入ってくるやいなや、離れて5年ぶりに親友から連絡が来たその時を考えると、今でもぞっとする。その時、神様が私を導かなかったら、そのままバーに行ったものである。久しぶりに私を遠くから訪ねてきた友人をどのように振り切れたのか今でも理解できない。振り返って考えてみると、神様が私の深い暗闇から救い与えようとしていたのだ。

 

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今、私はあなたを送って...

大学3年生の時、救われた後、教会で幸せに過ごし、いつのまにか卒業を控えて重大な決定をしなければならなかった。 「専攻した土木関連の仕事に入るのか、それとも福音伝道者になるために宣教学校に行くのか?」当時はグッドニュース宣教会の聖徒全員で、300〜400人程度であり、大学を卒業して宣教学校に入るということは、救われた聖徒以外理解できない道だった。特に私たちの家族は、私を気違いに見ることが火を見るよりあきらかだった。福音のために生きたいが、あまりにも負担になって嫌で、どの道を行くかを決定することができなかった。

冬修養会が開始されたが、心が混乱して行くのが嫌だった。修養会に行けば間違いなく心に神の御言葉が入ってきて、そうすると宣教学校に行くことになるからだ。宣教学校に行けば飢えるという話をよく聞いたので、青春真っ最中の若い年齢で飢えることも耐えられないようだった。

大邱(テグ)であった1次修養会が開始された日、部屋で布団をかぶって眠った。ところが、兄弟たちが私を待っていて来ないからやってきて「兄弟が乗らないとバスは出発しないですよ」と言った。いくら行くのが嫌でも、他の人に被害を与えたくはなくて起きた。

修養会の間に御言葉が心に入って来たと思いきや、御言葉を伝える時間は続けて寝た。そのように修養会を終えて帰ってくると、兄弟姉妹は充満な証をした。 「私だけ何なの?」と思った。これではいけないと思って2次ソウル修養会に再び参加した。御言葉をよく聞かなければという気持ちで行ったが、実際に到着して心がまた変わった。宣教学校に行くかと思って話を聞くのが嫌だった。ところが、最後の説教の時間に「前回も戻って後悔したが、今回は最後の時間の御言葉は聞こう」と思った。ルカ5章の御言葉に耳を傾けた。

「するとシモンが答えて言った『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』と"(ルカ55

ペテロは、イエスに会う前に、一晩中、網を投げたが得たものは何もないと告白した。イエスがいないで暮らしていた私の人生がそうだという気がした。ペテロがイエスの言葉に従って、魚をたくさん取った後、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」と主の前にひざまずいたように、私も心の中で膝まずいた。そのイエス様がペテロに、「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間とるようになるのです。」と言われましたが、その言葉が私の心に入ってきた。

宣教学校に行くことについて、家族が反対するのも心が重かったが、より恐れていたのは私が訓練受けて大変で逃げだすような思いからだった。ところが、イエス様が恐れないようにと言われ、それ以降は、人を取ると言われた。

その後、教会で断食祈祷会があった。断食したい人、30人余りが教会に集まってストーブを中心に囲んで座った。初日牧師が出エジプト3章を読もうと言われた。持ち回りで一節づつ読む、十一番目に座った私は11節を読んだ。

モーセが神に申し上げた。『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れださなければならないとは。』(出3:11

翌日にもぐるりと囲んで聖書を読む、牧師がまた出エジプト3章を順番に読もうと言われた。その日も私は十一番目に座っていて、11節を、また読んだ。神がそのようにされるという気がした。

断食を始めてから2〜3日が過ぎて一人ずつ定期的に戻って行って、私は心の中で決着をつけなければならないので、9日目まで断食した。数日間出エジプト3章11節に捕まった足跡も、これから踏み出さなかったが、ある日その前にある10節が目に入った。

「今、行け。わたしははあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出3:10

神はモーセをパロに送ると言われた。私が道を行くのではなく、神様が行かれるのだった。 「ああ、神様が私を伝道者になるようにされるということだね!」心の中で、新しい力が生じ、私を起こし立て、私の兄弟姉妹たちの前で「神が私に力をくれて宣教学校に入ることにしました。」と証しすることができた。

 

救いを受ける前に、私は聖書を知ることができずに、聖書の勉強を数十回もしても、救いをどのように受けるのか、まったくつかむことができなかった。ところが、神の恵みが私を導いて御言葉に心を開くことができたし、神の知恵により御言葉が話していることを少しずつ理解できた。救いを受けた日には、神の手が私を守って、教会に行って福音を聞いて受け入れることができた。救われた後も、私の弱さのために、福音のために精一杯走ってなかったが、神が私をつかんで引き寄せて、福音のために生きたいと思う気持ちを起こさせ、福音のために生きることができるよう、新しい力も吹き込んでくださった。

 

・・・3話に続く

 

宣教師の手記 1話 グッドニュースバンコク教会 キム・ハクチョル宣教師

宣教師の手記 グッドニュースバンコク教会 キム・ハクチョル宣教師

2020年1月号 グッドニュース誌から転用させていただきました。

キム・ハクチョル(韓国語ではキマッチョルと呼びます)

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良い大学に入れば幸せだ、という考えに閉じ込められて

 キム・ハクチョル宣教師は救われる前に、貧しい田舎の近所で育ち、大きな都市にある大学に入ることを夢見た。
そこに幸せがあるようだった。熱心に勉強して大学に入ったが、大学生活は日増しに虚無で自己恥辱感に陥った。

**グッドニュース宣教会は、海外200以上の教会に230人以上の宣教師を派遣して、福音を伝えています。
2020年には、タイのキム・ハクチョル宣教師の手記を連載します。現在、タイには、7つの教会と3人の宣教師、7人の現地教役者がいます。
宣教地に多くの関心を持って祈ってください。

 私が生まれたのは、非常に貧しい田舎町で、電気が入ってない、オイルの火を灯して生活していた。学校に入学した後は、毎日4〜5kmを歩いて登下校をしなければならなかった。天気がよければいいが、雨が降る時は傘もなく雨に打たれ、1時間程度をかけて行っていた。雨に合うのは、それでも我慢すればよかったが、雪が降るときは耳や鼻が離れていくようで、足は凍って感覚がなかった。

 中学校を卒業するまで、その近所に住んでいたが、小学校から中学校までの9年間に学校を抜けたことは一度もなかった。時々痛く学校に行けないと言うと、母がこう言われた。 「痛くて死んでも学校に行って死ね。」

 当時は、人々の多くが貧しかった。私たちの家にもお金がなくてご飯もなく、学校にお弁当を包んで持って行くことができなくて、学校で配るパン一つで昼食を済ませた。事実それ一つだけ食べても満腹感がないのに、半分だけ食べて、残りの半分は、夕方に家に帰って食べようと風呂敷に包んで家に帰った。

 家に帰る途中の中間あたりに近所の青年たちが、そのパンを奪って食べようと待っていた。その兄たちにパンを奪われると、泣きながら家に帰った。時にはパンを奪われるのが嫌で、山に登って遠回りして家に帰った。そのように行くと2〜3時間程度歩いてやっと家に着くことができた。

 家に着いた頃には近所に闇が少しずつ降りていた。山の下にある町内を眺めると、まるでホタルのように輝いてたが、光が弱く、暗闇の中で、すぐにでも消えそうなかすかな姿だった。その姿が私には貧困にあえぐ陰気で恐ろしいところ、入るのも嫌なところの姿に近付いてきた。

 その山から50km離れた所に益山という都市があったが、そちらを見てみると遠いのにもかかわらず、電灯が入っていて、私たちの近所よりも明るく輝いていた。 」わ・・そこには、誰が住んでいるのだろうか?そこには、お金も多く勉強も上手な人、スマートできれいな人が住んでるんだろう?私は勉強もよくできないのに... 、私は中学校を卒業するとあんな都市に行って住むことができるか?私もあんなところに住んでみたい。どのようにすればあんなところで住むことができるか?」いろんな思いがした。

都市の高校に行くには熱心に勉強しなければならない
 当時私は通っていた中学校では、生徒が280人程度だった、その中で都市の高校に行って勉強する学生は30〜40人程度しかいなかった。 280人の中から30人が高校に進学する場合、残りの250人は田舎に残って農業をやったり、工場に行ってお金を儲けて暮らしていた。結論は勉強をよくして280人のうち、少なくとも30位の中にいなければならが、私は40位程度だったので、「私は都市に行って勉強することができるか?」と心配になった。

 だから学校に行って家に帰ってきたら遅い時間だったが、かすかなオイルランプの下で本を読んで勉強をした。数時間をかけて疲れて眠いが机の上に座って勉強した。20〜30分経っただろうか、私の母が呼ぶか、誰が歌うか「ハクチョラア〜」と呼ぶ声が聞こえてビックリ目を覚ますと、居眠りしていた。

 「誰が私を呼んだ?母が呼んだのか?」とお茶の間を見ると母は眠っておられキッチンには誰もいなかった。ところが少ししてイカを焼くにおいがするではないか。
「私は一生懸命勉強してるから、お母さんがイカを焼いてくれるのか?ところがおかしい。お母さんは部屋で眠っていらっしゃる?私はちょうど居眠りから起きたから夢の中でイカ焼きの匂いを嗅いだのか?」

 いろんな考えをして頭を触ってみると前髪が焼けたのだった。オイルランプの火に頭が乗りイカを焼く匂いと同じ匂いがした。 「ああ、頭が焼けたね。また、友人たちの笑いものになるな。気を引き締めて勉強しなくちゃ。」

 また、熱心に本を読んでいると、また母が呼んだようで目が覚めたが、母はまだ眠っておられ、またイカの焼ける匂いがするではないか。再び頭を触ってみると頭は少し前のままであった。 「そしたらどこが焼けたか?」と眉を触ってみると眉毛が焼けていた。 「学校行けば友達がらい病人が来た、とからかうのに」という思いがして、恥ずかしくて学校に行くのが嫌だった。

 次の日、母に痛くて学校に行けないと言うと、母は棒を持って出てきて、私を殴り無条件で行けと言われた。母親が怖くて学校に行くと予想どおり友人が私をからかった。本当に学校に行くのが嫌な時が多かったが、学校は必ず行った。 「勉強をよくして出世して、お金持ちになって幸せに生きなければならない」という母親の意志に導かれてでも一生懸命勉強しなければならなかった。

ああ、このように勉強すればいいんだね
 その努力した結果、高校の入学試験に合格して都市に行くことができた。春になって開校し、私たちの組に行ってみると、私のような田舎者とは異なり、友人の多くは都市の子供で勉強を本当に上手にするように見えた。だから、私は学校に到着すると「勉強しなければならない」とすぐに机の上に座ったが、友人たちは学校に来るとバックパックを投げておいて遊びに行った。それで「あの子たちは予習復習しなくても勉強をよくするから遊んだろう。試験を見ると、私は50人のうち40〜50位くらいだろう?そしたら、恥ずかしくて学校にどのようにして通うの?」と思った。だから学校に行くやいなや、もっと熱心に勉強しなければならないと思った。

 学校に通って休み時間に遊んだことがなかった。昼休みにも友人のように歩き回って遊んでみたことがなかった。時間さえあれば机に座って勉強をしなければならないと思った。しばらくして、高校に入って初めての試験を受けた。「ああ、果たしてどの程度だろうか?20位になっても良いだろう。 50人中、20位だけでも良かったんだ。それとも40位? 50位だろうか?」後で試験結果が出た2位であった。「わぁ!勉強すればできるんだなぁ」と思った。

 毎朝朝礼の時間に担任の先生が教室に入って来る時は友人は遊んで "先生がきた!」とあたふた席に座った。ところが、私は事前に座って勉強しているから、先生が私たちのクラスの友達に「君たちはハクチョルのように勉強しろ」と言われた。その話を聞くから気持ちが本当に良かった。 「ああ、こう勉強すればできるんだ!」先生も褒めていただいて、時には友人がパンも持ってくれて、学校に行くのが面白かった。勉強するのも面白かった。 「私は勉強すればできるんだ!」という気持ちがした。

 高校3年の間に一度行く修学旅行が高校2年生の時あった。 3泊4日の間に俗離山の下にテントを張って頂上まで上がって行ってくる旅行だった。すべての友人が修学旅行を行ったが、私は一人で学校に残って勉強をした。修学旅行に行かないで、どこにも遊びに行かないで勉強だけした。他の人が遊ぶとき同じように遊べば、どうして良い結果を得ることができますかと思った。そうすれば良い大学に入るだろうと思った。

 

 

夢見ていた大学入学

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 高校を卒業して、大学入学試験をして落ちた。あまりにも絶望的で友人に会うことも恐ろしく親戚に会うことも嫌だった。浪人して1年また勉強して試験をした、また落ちた。しばらくして姉の家に行き、姉が言った「私はあなたのような弟が恥ずかしい。お前、大学合格すれば、私たちの家に来ることができる。それまでは、私たちの家に来るな。」心に「大学落ちるから姉も私を捨て、友人も私を捨てるんだな」と思った。

 もっと熱心に勉強して大学に必ず入らなければならないと考えた。そして三浪の最後に、最終的に大学の入学試験に合格した。飛ぶように嬉しかった。 「これが幸せであり、自由よ。このように生きるんだよ」と思った。私が子供の頃から夢見ていた大規模な都市に行って大学を通うようになった。

 

ここで何をやっているのですか?
 大学1年生のときには酒を飲んでタバコ吸って、授業がない週末にはずーっと遊びまわった。ハイキングもして登山も行って浜にも遊びに行き、ずっと遊びながら「こう生きるのが幸せだ」という気持ちがした。ところが、不思議な点があった。遊び続けてみると、お酒を好きになって、その後お酒をたくさん飲み、次の日の起きれなくて、学校の授業まで抜けた。

 「あれ?私が何をやっているのか?私が学生か?私が子供の時に、このような都市に住んで幸せだと思っていたが、今私はここで何をやっているのか?」

 中学校の同級生の中で大学に入った人は10人いなかった。私は10人のうち一人だから故郷に行って友達に会うとき、友人が私を本当にうらやましがった。「君は大学生で良いね。」親戚もみな私を賞賛し羨望した。父は、私が一生懸命勉強すると思い、本を買うお金もいただいたが、私はそのお金でお酒を飲みながら遊びまわった。両親の前では学生だったが、都市に戻ってからは遊びまわり授業を避けるのが常であった。

 お酒を飲んで遊んでみると、どのようなときも酔って路上や駅前などで眠ったこともあった。朝起きると「私は勉強もして都市に来れば幸せだと思った私は今一体何になったの?」という自己恥辱感の中で辛かった。

 そのようにと時間が流れて大学3年生になった。心を落ち着かせ勉強しようと午前4時から図書館に行く準備をした。当時私は通っていた大学では、夜明けには図書館の正面玄関は開かず非常階段だけ開いた。午前4時半に図書館に到着すると、すでに200〜300人が非常階段の前に並んで待っていた。早く入ると読書室の中の最も静かな場所を得ることができた。ドアの前にある席で勉強すると行き来する人々のために集中できないから皆そんな席は望まなかった。試験期間は、図書館の前に完全にテントを張って寝る人もいた。
「ああ、あそこまでして勉強をするんだな」と思った。

 図書館4階には「精読室」という、勉強する部屋があった。夜明けに図書館の扉を開くと、待っていた学生が精読室で良い席を得ようと、みんながいっせいに恐ろしく階段を走って上がった。あるとき女子学生が階段で倒れた。だから後ろにいた学生が「ここに人が倒れたのだから押して上がってこないでください!」と声を上げたが、その後ろでは、その音が聞こえないから、押し続けて上がって前にいる学生が押されて倒れた女子学生を踏んで上がった。その光景を見ながらやるせなかった。 「これ大学ですか?このようにして幸せになるのか?」

 子供の頃大学は自由とロマンがあるところだと思いましたが、いざ入ってみると外から見る大学と中で見る大学はとても違った。直接見ると、競争が高校よりも激しかった。私が中学校、高学校に通うとき、大学生はワイシャツにバッジをつけて通った。そのバッジが星のように輝いて見えた。だから「私はいつあんなバッジをつける?いつあんな星をつけてみようか?」という考えで熱心に勉強して大学に入ってきたが、入ってみるとそんな幸せはなかった。

 「私は勉強して幸せになるためにやらなくてはいけない。ところが高校生の時大学に入ると、幸せだと思って一生懸命に勉強したが、ここに幸せがないんじゃない。その後、大学で一生懸命勉強して卒業して良い仕事を得た。結婚をした。その後、そこには本当の幸せがあるか?」

 私の心は不安と漠然でいっぱいになった。私は大学に入る前の想像が現実と全く異なっていたかのように、大学を卒業した後も、まったく別の現実があるようだった。 「こんな世界を歩き続けなければならのか?本当に幸せになれるならば、幸福が保証されるなら命をかけてでも勉強するのに....」私が夢見たことが叶ったが、そこに想像していた幸せな人生がないことがあまりも虚しかった。その時の虚しさは言葉で表現できないものであった
1-2 写真参照

ため息だけ続けて出てきた
 小学校6年、中学校高校6年、浪人を合わせ、14年の間に勉強し、大学に行って4年をもっと勉強しました。全部合わせて18年、その時代の間に、私はまるでルカ13章11節の「18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことができない女がいた」という聖書の一節に出てくる女性と同じだった。病の霊につかれ18年の間に一度も体をしっかりと伸ばして見られなかった女性の姿、それが私の姿だった。
 
 私は幼い頃から、このような考えをたくさんした。 「私は勉強をよくして都市に住めば肩を張って生きるんだな」だから懸命に勉強し都市の高校に入ったとき、肩を張った。私の友人は、このような都市で勉強できないのに、私の友人よりも勉強をよくして、このような都市に暮らしているじゃない」ところが私より先に行く人々に追いつくために、私は腰が曲がっていた。浪人の後大学に合格してまた肩張っていたが、卒業して良い職場を得ると前よりもっと熱心に勉強しなくてはいけないと腰が曲がった。

 私はいつのまにか「いっそ死のう。生きても何も望みがない」と絶望の中にますます
陥った。ため息だけが続いた。私が背負っている荷物がとても重かったからである。その荷物が消えなかったからである。
「どうすれば良い仕事に入るか?どのようにお金を儲けるか?どのように生きなければならんだろう?私の罪はどのように洗うことができるのだろうか?」そのようないっぱい積もった荷物が私を押しつぶし、私の腰を曲がるようにしていった。

 「18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか」(ルカ13:16)18年の間に、サタンに縛られて過ごしたこの女性のように、サタンは私に「良い大学に入ると、自由を得るでしょう、熱心に働けばお金をたくさん儲け幸せに暮らすだろう」という考えを入れた。それはすべての人がするごく普通の考えであり、私はその考えに沿って、熱心に生きれば周りの人から賞賛と羨望を受けるエリートだと思った。しかし、私の姿を正確に見たことが一度もなかったが、聖書に映った私の姿は、悪霊につかれた人のように狂った心を抱いて生きたのだった。

 

・・・2話に続く

 

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