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宣教師の手記 2話 グッドニュースバンコク教会 キム・ハクチョル宣教師

 

2020年2月号グッドニュース(韓国語から転用させていただきました)
宣教師の手記_キム・ハクチョル宣教師編(2話)

 

神さまが私に新しい人生を与えられた

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熱心に勉強して行った大学で挫折したキム・ハクチョル宣教師は偶然知り合った全州(チョンジュ)平安教会を訪れた。そこで一ヶ月間福音を聞いても理解できなかったが、ローマ書を読んで、自分が罪人であるという事実を発見し、救われた。

 ルカ13章に出てくる悪霊につかれ18年の間、腰を曲げて生きていた女性の姿がまさに熱心に生きれば幸せだと信じて生きていた私の心の姿だった。その日も図書館に早く行ってもいい席を取り本を読んだが、まったく集中できなかった。外に出て、廊下でタバコを吸った。ところが、反対側の廊下の端で私の友人と先輩が深刻に話をする姿が見られた。「向こうで何してるんだろう?」近くに行った。先輩が友人に尋ねた。「もし今日死ぬなら怖くない?」私の耳に聞こえてきた先輩の質問に、「今日死ぬなら誰でも怖いさ。あれは何の質問かな?じゃあ、この世の中に今死んでも怖くない人がいるのか?変わった不思議な質問があるね。」と思った。先輩の質問を受けた友人は1分間何も言わなかった。先輩が再び口を開いた。「私は今死んでも怖くない」

その瞬間、私はショックを受けた。「どうして人が死の前にして怖くないと言えるの?」先輩が友人に伝道しているという事実を知って、伝道が終わった後、その先輩に声をかけた。
「先輩、教会に通ってますか?どの教会に通ってますか?」
「ああ、私たちの学校の前にある全州(チョンジュ)平安教会に通ってる」
「学校の前にそのような教会がありました?」
私はずっと教会に行きたいと聞いて表現したが、先輩は関心がなかった。善良そうなその友人だけに続けて教会に来るように言わないで、私が「私は行きますからね。」と言っても全く信じられない目つきだった。おそらく私のようにお酒が好きでタバコを吸う人は、教会に通うタイプではないと思っていたようだ。

 

初めて行った全州(チョンジュ)平安教会
 翌日の日曜日の朝、教会に一度行ってみたいという思いで下宿を出た。大学の前にある、鐘楼と十字架がある教会を訪れた。「ドクチン中央教会?ここ先輩が言った教会ではないね。」その横に、また大きな教会が見えるので行ってみると、やはり先輩が通う教会ではなかった。三、四教会を見つけたが、全州(チョンジュ)平安教会は見えなかった。

1時間ほど迷ったが「エイ、礼拝が終わってしまう。出てきたついでに、市内に行って映画など一本見ていこう」とバス停に向かった。バス停でバスを待ちながら周辺の建物を見まわして見ると、ある建物の3階に小さな看板がかかっていて、そこにペンキで書いたような字体で「全州(チョンジュ)平安教会」と書かれていた。私は鐘楼と十字架が立てられたところだけ教会と思ったので、そんなところに教会があるとは思ってもみなかった。
 
礼拝が終わっただろうが、それでも、一度行ってみようという考えで、建物の3階に上がってみると、教会ではなかった。ちょうどある人が、後ろにある非常階段で上がる教会があると教えてくれた。そこに行くと小ホールの中に人々が赤い座布団に座っていた。「これは何の教会なの?」し、ドアを閉め降りてくると、ある女性の方が、「教会に来てみたんでしょ?入ってください。」と言って私を引っぱって入った。まだ礼拝をささげていた。座っているのだが、あまりにも言う言葉がなかった。そのようにしてグッドニュース宣教会に初めて会った。

 

なぜ私は罪人なの?
 全州(チョンジュ)平安教会は信徒が20人ほど小さな教会であった。その教会に青年が自分の足で探してきたので、どれほど興味があるか。私を見る人ごとに福音を伝えてようとした。アダムによって、私は罪人になり、イエスが私の罪を背負って行かれたと言った。「今日も明日も罪を犯し、どのように私の罪がイエスに移ったの?」言葉は理解しますが、まったく信じられなかった。そうして一ヶ月ほど経つと「大学生がなぜあのようにもどかしいの?」という声が聞こえてきた。教会に行くのが嫌になって、私を見ると罪人だと言うので怒った。「私が殺人をした、姦淫をした、詐欺をした?なぜ私は罪人なの?善良に勉強だけして暮らしていた!」

毎日学校でも教会でも、聖書の勉強をしたので、月に40回読んで勉強したが、救いを受けられず、息苦しさがますます大きくなった。ある日教会に行ったら先生がローマ書1章から10章まで熱読してみろと言った。読もうとして聖書を開いて単語が不慣れで理解できなかった。何とか読もうじわじわ読んでも何を意味するのか分からなかった。結局、一章をきちんと読まないまま、聖書を閉じてタバコを手にした。

 

冗談ではなく、お酒を飲みに行こう
 ある日私が通っていた土木課で現場実習を行って、バスに乗って山道をギリギリに上がって下を見下ろすと断崖であった。ともすればバスが墜落して死ぬだけだった。「私はまだ罪の許しを受けてなく、死んだら地獄に行くんだな。初めてこのような気がした。

次の日の休講なので朝からローマ書を再び読んだ。1章から10章まで二回読ん三回読んで、それを午前中読んでローマ1章28節目に入った。「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました」私がどんな人なのか、初めて聖書を通し発見した。心に神を知ろうとしたがらない、神から見捨てられた存在は、その人がまさに私であった。

続いて誹謗する者、高慢な者、誇る者、悪を図る者、親に逆らう者などは死刑に当たるという御言葉を読んだ。「誇る者」に私の目が止まった。私の中で「私もかつて勉強をよくした。それでも私は大学生だよ」という気持ちがあったからだ。盗みや姦淫や殺人だけでなく、自慢するのも罪であった。自慢したら、神の心では聞きたくない私が罪人であることが明らかになった。

私は罪人であってはいけない、「ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5:19)御言葉に目が留まった。「ああ、アダムが罪人だから、私が罪人になり、イエスが従順になったから、私が義人になることだね」と御言葉が心に入ろうとするやいなや、「キム・ハクチョル学生、電話が来た!」と下宿のおばさんが呼んだ。電話を受けてみると高校生の時一番親しかった友達だった。5年ぶりに連絡が届いた友人に会いに行った。

友達が嬉しいので酒を飲もうと言うだろうから、酒の席を避けようと劇場に連れて行った。映画を見ながら「どのようにこの場を避けようか?」と、そのことしか考えなかった。映画が終わると友人が「おい、さあ酒飲みに行こう。」と言った。その夜必ず福音を聞かなければならないので行くことができなかった。
「申し訳ない、俺は教会の牧師と約束がある。 」
「何?狂ったのか、お前が教会に行く?やあ、教会が滅びるな。冗談言わないで、お酒飲みに行こう。」
「いや、本当に約束がある。申し訳ない。俺が次の週にお前の家にたずねて行くよ。」
そう言って振り返って離れると背中で「このやろう、バカやろう」と友人の罵る声が聞こえた。

 

これだったんだ!
 教会に到着すると、牧師がひとりの若い女性と信仰相談をしていて、私を見て言われた。
「今日学生たちと必ず聖書の勉強をしたくて下宿に電話したところ、学生がいないといって残念だったが、よく来た。ここに座って。この若い女性も学生も状態が同じことだ。だから一緒に聞いてください。」
牧師は聖書研究を続け、私は隣に座って一緒に聞いた。

「ああ、わたしの苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」(イザヤ38:17)

牧師がこの聖句を読んで説明してくれた。「聖書には原罪や自己犯罪という言葉自体がありません。すべての罪と記録されています。私たちのすべての罪をイエスの背にゆだねた。」私は頭を持ち上げて天井を見つめた。「これだったんだ!私の罪と重荷がイエスにすべて移ったのだ。ところが、これを信じられず、私が背負っていたんだな。心があまりにも平安だった。飛ぶよう嬉しく、本当に幸せだった。

その時から、誰に会っても、首を上げたし、笑うことができた。友人が「お前、恋人できたの?なぜニコニコ笑って通うの?」と突然変わった私の姿に驚いた。私はお金がなくても幸せだった。「わらぶきの小さい家でも私は満足だね〜」という賛美を歌って通った。お金から、勉強から、罪からイエスが私を解放してくれた。神の御言葉が私の心に入ってきたとき、真の幸せが訪れたのだ。

ローマ書を読んで福音が私の心に入ってくるやいなや、離れて5年ぶりに親友から連絡が来たその時を考えると、今でもぞっとする。その時、神様が私を導かなかったら、そのままバーに行ったものである。久しぶりに私を遠くから訪ねてきた友人をどのように振り切れたのか今でも理解できない。振り返って考えてみると、神様が私の深い暗闇から救い与えようとしていたのだ。

 

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今、私はあなたを送って...

大学3年生の時、救われた後、教会で幸せに過ごし、いつのまにか卒業を控えて重大な決定をしなければならなかった。 「専攻した土木関連の仕事に入るのか、それとも福音伝道者になるために宣教学校に行くのか?」当時はグッドニュース宣教会の聖徒全員で、300〜400人程度であり、大学を卒業して宣教学校に入るということは、救われた聖徒以外理解できない道だった。特に私たちの家族は、私を気違いに見ることが火を見るよりあきらかだった。福音のために生きたいが、あまりにも負担になって嫌で、どの道を行くかを決定することができなかった。

冬修養会が開始されたが、心が混乱して行くのが嫌だった。修養会に行けば間違いなく心に神の御言葉が入ってきて、そうすると宣教学校に行くことになるからだ。宣教学校に行けば飢えるという話をよく聞いたので、青春真っ最中の若い年齢で飢えることも耐えられないようだった。

大邱(テグ)であった1次修養会が開始された日、部屋で布団をかぶって眠った。ところが、兄弟たちが私を待っていて来ないからやってきて「兄弟が乗らないとバスは出発しないですよ」と言った。いくら行くのが嫌でも、他の人に被害を与えたくはなくて起きた。

修養会の間に御言葉が心に入って来たと思いきや、御言葉を伝える時間は続けて寝た。そのように修養会を終えて帰ってくると、兄弟姉妹は充満な証をした。 「私だけ何なの?」と思った。これではいけないと思って2次ソウル修養会に再び参加した。御言葉をよく聞かなければという気持ちで行ったが、実際に到着して心がまた変わった。宣教学校に行くかと思って話を聞くのが嫌だった。ところが、最後の説教の時間に「前回も戻って後悔したが、今回は最後の時間の御言葉は聞こう」と思った。ルカ5章の御言葉に耳を傾けた。

「するとシモンが答えて言った『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』と"(ルカ55

ペテロは、イエスに会う前に、一晩中、網を投げたが得たものは何もないと告白した。イエスがいないで暮らしていた私の人生がそうだという気がした。ペテロがイエスの言葉に従って、魚をたくさん取った後、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」と主の前にひざまずいたように、私も心の中で膝まずいた。そのイエス様がペテロに、「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間とるようになるのです。」と言われましたが、その言葉が私の心に入ってきた。

宣教学校に行くことについて、家族が反対するのも心が重かったが、より恐れていたのは私が訓練受けて大変で逃げだすような思いからだった。ところが、イエス様が恐れないようにと言われ、それ以降は、人を取ると言われた。

その後、教会で断食祈祷会があった。断食したい人、30人余りが教会に集まってストーブを中心に囲んで座った。初日牧師が出エジプト3章を読もうと言われた。持ち回りで一節づつ読む、十一番目に座った私は11節を読んだ。

モーセが神に申し上げた。『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れださなければならないとは。』(出3:11

翌日にもぐるりと囲んで聖書を読む、牧師がまた出エジプト3章を順番に読もうと言われた。その日も私は十一番目に座っていて、11節を、また読んだ。神がそのようにされるという気がした。

断食を始めてから2〜3日が過ぎて一人ずつ定期的に戻って行って、私は心の中で決着をつけなければならないので、9日目まで断食した。数日間出エジプト3章11節に捕まった足跡も、これから踏み出さなかったが、ある日その前にある10節が目に入った。

「今、行け。わたしははあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出3:10

神はモーセをパロに送ると言われた。私が道を行くのではなく、神様が行かれるのだった。 「ああ、神様が私を伝道者になるようにされるということだね!」心の中で、新しい力が生じ、私を起こし立て、私の兄弟姉妹たちの前で「神が私に力をくれて宣教学校に入ることにしました。」と証しすることができた。

 

救いを受ける前に、私は聖書を知ることができずに、聖書の勉強を数十回もしても、救いをどのように受けるのか、まったくつかむことができなかった。ところが、神の恵みが私を導いて御言葉に心を開くことができたし、神の知恵により御言葉が話していることを少しずつ理解できた。救いを受けた日には、神の手が私を守って、教会に行って福音を聞いて受け入れることができた。救われた後も、私の弱さのために、福音のために精一杯走ってなかったが、神が私をつかんで引き寄せて、福音のために生きたいと思う気持ちを起こさせ、福音のために生きることができるよう、新しい力も吹き込んでくださった。

 

・・・3話に続く